鹿児島でのさつまいもでん粉は、当初は自家用の餅とり粉や食用を目的に、薄い鉄板に穴をあけたものを使用し、大根おろしの方法でさつまいもを摺りおろして、これを布製の袋に入れ絞り、その絞り汁を桶の中で沈澱させ、それを取り出し天日で乾燥させでん粉を作っていた。
『かごしまさつまいも小事典』(平成17年)によると、販売用のさつまいもでん粉の製造は、明治26年現在の西之表市現和で、鹿児島出身の山下徳蔵氏が工場を作り開始した。大根卸しのようなもので、さつまいもを手で摺りおろし、これを布袋に入れ、水を入れた桶の中で、足ででん粉を踏み出す方法で製造し、販売を始めたとされている。
また、明治百年記念『現和郷土誌』(西之表市)によると、明治36年、地域のさつまいもの生産量が増加してきたことに対応するため、古賀松次郎氏が石臼を利用してでん粉製造を始めたが、明治39年の秋、大洪水のため諸道具を流され、目的を達成せず廃止、その後、明治40年地区民が西之表市の山下徳蔵氏に依頼し、工場を設置したとある。当初は、水車を利用していたものの、さつまいもの生産量が増えたことから、6馬力の発動機に動力をかえて製造したと記されている。
また、明治35年鹿屋村中名(現 鹿屋市王子町)で、木山嘉七(明治8年〜昭和19年)氏が千葉県で学んだでん粉製造法をもって、製造を始めた(『さつまいも小事典』)。その時の製造法は、直径20cm、長さ80cmの木のローラーに薄い鉄板巻き、この鉄板に目立をして、4人ぐらいでハンドルをまわしながら、さつまいもを摺り込む方法であった。この頃、長崎県大村で、共同のでん粉工場を整備した鹿屋村白崎(現 鹿屋市白崎)の清水栄吉氏は、動力に水車を使用したでん粉工場を整備したとされている。その後、先進県では生産量の増加に対処するため、処理能力の高い機械が開発されてきたが、それが鹿児島に入ったのは、大正時代になってからである。
日本澱粉工業株式会社『本坊氏卆寿記念誌』によると、大正時代に入り、大正7年「日本でん粉株式会社」が設立され、九州に8工場が建設された。特に、鹿児島市稲荷町には、でん粉、水飴、アルコール、黒糖を製造する総合工場が建設された。その工場は、第一次世界大戦時(1914年〜18年)は好景気時代を迎えたが、大戦後の経済恐慌時代に直面し、工場を閉鎖という厳しい状況になったと記されている。
この日本澱粉梶i現在の日本澱粉工業鰍ナはない)は、当時、資本金100万円を得て九州各県に工場を建設し、25馬力の発動機を動力とし、生産効率の高い近代的な企業として、業界では注目をあびたとされている。
この頃から、でん粉企業として発展していくことになるが、でん粉製造が食品としてのみならず、工業用、また医薬品として多用途化していく始まりであったと言えよう。
本稿は、当機構ホームページ(でん粉分野)の記事「
鹿児島県におけるでん粉原料用さつまいも及びでん粉産業」からの抜粋である。