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さつまいもでん粉人列伝

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最終更新日:2010年3月6日

さつまいもでん粉人列伝
〜1.小野田正利と農林1号〜

[2009年10月]

【でん粉のあれこれ】

元大阪府立大学大学院教授 樽本 勲


1.さつまいも育種試験場の変遷

藷畑初代が見遣る六代目
樽本いさを

 さつまいも育種事業は昭和12年(1937)に大改変され、農事試験場九州小麦試験地にかんしょ(さつまいも)の実生選抜事業を付加、また沖縄、鹿児島、千葉、岩手の4県に酒精原料作物試験地が設置されました。零戦をさつまいもから製造したバイオエタノールで飛ばそうとの軍需目的でした。その年に千葉の初代主任に任命されたのが、小麦指定試験地(千葉)から転任の小野田正利でした。この試験地は昭和22年(1947)に農事改良実験所、昭和26年(1951)に農事試験場になり、そして農業研究センター甘しょ育種研究室(現作物研究所食用サツマイモチーム)になりましたので、初代研究室長が小野田正利(在席1937―67)ということになります。その後、研究室長は坂井健吉(1967―73)、安藤隆夫(1973―79)、志賀敏夫(1979―1983)、坂本敏(1983―86)が継ぎ、つくば移転と同時に六代目・樽本勲(1986―92)が赴任しました。その年に当時80才の小野田が移転先の谷和原ほ場を訪問し、施設・ほ場などを検分しています。四街道の赤く、軽い火山灰土壌に比べてやや黒く重い谷和原の土壌とさつまいも育種の経験がない新米の六代目室長を見遣る鋭い眼光が印象的でした。その思い出を詠んだのが冒頭の俳句です。


図1 小野田正利氏1980年 74才

2.農林1号の誕生

 さて昭和17年(1942)に登録された「農林1号」は小野田が最初に育成した酒精原料用(後のでん粉原料用)品種でした。その育成経過は、昭和9年に農林省から千葉県農試園芸部(委託試験)に「元気×七福」(昭8年交配)の種子が配付され、同部で同年に発芽・採苗した515本を試験し、このうちの1系統に「9―104」の番号を付けています。昭和9〜11年の3年間は委託試験担当者・渡辺誠三が担当し、食用としての食味や収量性により選抜を続けたようです。昭和12年からは小野田正利が酒精原料用としての選抜を行い、その高収量と高でん粉歩留りから関東2号を付して、関東では「紅赤系統」、近畿、東海地方では「源氏系統」より収量性に優れていたことから、「農林1号」(写真2)と栄えある命名を受けています。


図2 かんしょ農林1号

3.食味の良かった農林1号

 「鹿児島」を標準品種とした「農林1号(関東2号)」の4年間の育成地での成績では、対標準品種比で反(約10アール)当たりのいも重は21〜29%高、切干重(収量×切干歩合)は10〜35%高と好成績でした。しかし、実際のでん粉収量につながるでん粉歩留は1〜5%低い結果があり、この弱点を収量でカバーするよう育成されています。「農林1号(関東2号)」の良食味性を捨てがたいとする小野田正利の判断があった結果と考えられます。これは坂井健吉らが育成した「コガネセンガン」にも相通ずるものがあります。すなわち、さつまいもを単に原料用として栽培し利用するのはもったいない。収穫時期である秋を待てずに早掘りしたいも、また形良くできたいもを主食や間食として食べたいと思う時代背景にも配慮したと思われます。ちなみに農林1号は昭和24年(1949)に4万6000ヘクタール、ピークの昭和33年(1958)に9万2000ヘクタールが作付けされ、表向きの仕向けは原料用でした。しかし事実は異なるようで、終戦直後の1時期に食糧庁食糧管理局に勤務した方のコメントでは、「農林1号は食味が良いので、闇物資としてほぼ全量が食用に回っていたのではないか。原料用には関東では沖縄100号が多かったように思う」とのことでした。その後の農林1号ですが、主に食用として昭和40年(1965)に6万2000ヘクタール、昭和60年(1985)に1万9000ヘクタール、平成17年(2005)には600ヘクタールが栽培されています。作りやすく食味がよいことから長寿の品種となったと思われ、また浅草・船和の芋ようかんはいまだに農林1号を材料としていると聞いています。


4.13品種を育成

 昭和12〜42年の30年の在任中に小野田正利は農林1、4、5、6、8、10号、クロシラズ(N11)、チハヤ(N12)、シロセンガン(N13)、オキマサリ(N14)、クリマサリ(N21)、タマユタカ(N22)、コナセンガン(N27)の13品種を育成しています。この間の昭和12〜20年は日中戦争とそれに続く太平洋戦争期間でした。小野田は徴兵時には陸軍鉄道連隊で中尉にまで将官しています。退役とはいえ当時31〜39才であった小野田に召集・出征はなかったかの疑問があります。これについては元部下・竹股氏が本人から聞いた話で、「事実、召集はされた。しかし、千葉県庁からの『余人に代え難い』との申請を受け、一日入隊で兵役免除された」とのことでした。育種一筋で寡筆、一本気で厳しい気質は、九州・小倉の生まれ(明治33年)に加えて、兵役免除された経歴にも関係があるかとの元部下の評があります。享年94才(1906生〜没2000)。

生きて会いぬ
  彼のリュックも 甘藷 いも
                  原田種茅

(文中敬称略)


各品種の解説

元気:後述の源氏系統を参照

七福:明治33年、広島県の久保田勇次郎が米国から導入し命名した。皮色は黄白、肉色は黄白、加熱後は粘質で食味は中下。食用品種。

紅赤系統:明治31年、埼玉県の山田イチが「八房」の突然変異を選定し「紅赤」と命名。一般には「金時」と呼ばれ、千葉赤、茨城赤、大正赤などの系統がある。西の源氏系統に対して、東の重要系統。皮色は赤紫、肉色は黄、加熱後は粘質で食味は良。食用品種。

源氏系統:明治28年、広島県の久保田勇次郎が豪州から導入し命名した「三徳いも」が、全国的に「源氏」「げんち」「元気」などと呼称された。「便利」「鹿児島」などはその系統で、「つるなし源氏」「立鹿児島」などの突然変異系統もある。全般に皮色は紅、肉色は淡黄白、でん粉歩留まりは当時としては高く、加熱後は粉質で食味は中。主に食用。

鹿児島:前述の源氏系統を参照

沖縄100号:「七福×潮州」の後代、沖縄交配の後代、昭和9年、沖縄県で命名。皮色は淡紅、肉色は黄白、でん粉歩留まりは低いが、関東地方では作りやすく多収であり、でん粉原料品種として利用された。

農林1号:「元気×七福」の後代、昭和17年に命名登録。皮色は淡紅、肉色は黄白、でん粉歩溜まりは高く、加熱後は粉質で食味は中。主に食用。

農林4号:「吉田×沖縄100号」の後代、昭和19年に命名登録。皮色は紅、肉色は黄白、加熱後は中質で食味は中。主に食用。

農林5号::「吉田×沖縄104号」の後代、昭和20年に命名登録。皮色は紅、肉色は白、加熱後は粘質で食味は中。食用品種。

農林6号:「紅皮×沖縄100号」の後代、昭和20年に命名登録。皮色は赤紫、肉色は黄でカロチンを含む。加熱後は粘質で食味は中。食用、加工用品種。

農林8号:「紅皮×潮州」の後代、昭和22年に命名登録。皮色は赤紫、肉色は白、加熱後は粘質で食味は中。主に食用。

農林10号:「吉田×沖縄100号」の後代、昭和25年に命名登録。皮色は赤紫、肉色は白黄(うん?)、加熱後はやや粘質で食味は中。食用品種。

クロシラズ(農林11号):「九州1号×沖縄100号」の後代、昭和27年に命名登録。皮色は淡紅、肉色は白黄、加熱後は中質で食味は中。主に食用。黒斑病に抵抗性。

チハヤ(農林12号):「紅皮×沖縄100号」の後代、昭和27年に命名登録。皮色は赤紫、肉色は黄、加熱後は中質で食味は中。主に食用。

シロセンガン(農林13号):「又吉×九州1号」の後代、昭和27年に命名登録。皮色は淡黄白、肉色は黄白、加熱後はやや粘質で食味は中。主に食用。

オキマサリ(農林14号):「関東4号×沖縄6号」の後代、昭和27年に命名登録。皮色は紅、肉色は黄白、加熱後は中質で食味は中。主に食用。

クリマサリ(農林21号):「兼六×農林7号」の後代、昭和35年に命名登録。皮色は赤紫、肉色は黄白、加熱後はやや粉質で食味は中。食用品種。

タマユタカ(農林22号):「関東33号×関東19号」の後代、昭和35年に命名登録。皮色は帯紅黄白、肉色は白黄、でん粉歩溜りは高く、当初はでん粉原料用であったが、現在では蒸切干の主要原料。黒斑病に抵抗性。

コナセンガン(農林27号):「関東33号×農林1号」の後代、昭和37年に命名登録。皮色は淡褐、肉色は黄白、でん粉歩溜まりが高い。でん粉原料用。

コガネセンガン(農林31号):「鹿系7―120×ペリカン・プロセッサー(L―4―5)」の後代、昭和41年に命名登録。皮色は黄白、肉色は黄白、でん粉歩溜りは高く、加熱後はやや粉質で食味は中。主に焼酎とでん粉原料用、一部食用。

 

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