7世紀半ば以降、イラン、イラク、シリア、エジプトなど西アジアのイスラーム世界で砂糖生産がさかんになると、砂糖(スッカル)を専門に扱う砂糖商人(スッカリー)が登場してきた。
彼らのなかには、ムスリム商人ばかりでなく、ユダヤ教徒の商人も数多く含まれていた。ユダヤ教徒商人の活動を記したゲニザ文書(*注)の研究家ゴイテインによれば、スッカリーはゲニザ文書に現れるもっとも一般的な職業であり、家族名であったという。彼らの活躍の舞台は、エジプト・シリアの東地中海域ばかりでなく、マグリブからアンダルシア、さらには南欧を含む地中海の全域に及んでいた。
*注:1889年、カイロ南郊のフスタートにあるユダヤ教会の保管室(ゲニザ)から発見された古文書群。文書はヘブライ文字のアラビア語で記され、10−13世紀のユダヤ教徒商人の活躍の様子を生き生きと伝えている。
ここでアイユーブ朝のスルタン、サラーフ・アッディーン時代(1169−93年)の事例をひとつ紹介してみよう。1192年、ダマスクス在住のあるユダヤ商人は、シリアの海岸都市アッカーに布陣していたスルタンのもとに出向いて行き、次のように訴えた。
私はユダヤ教徒でダマスクスの商人です。〔エジプト産の〕砂糖20荷を船に積んでアレクサンドリアからやってきました。ところがアッカーの港まで来ると、あなたの配下の者が私の荷物をうばい、このようにいったのです。「お前は不信仰者なのだから、お前の商品は当然スルタンのものとなるべきだ」(バール・ヘブラエウス『年代記』)。
サラーフ・アッディーンはこの訴えを聞くと、関係者に事実を確かめたうえで、砂糖の代金を返却したと伝えられる。当時の1荷(ヒムル)は、ラクダ1頭が運ぶことのできるおよそ250キログラムに相当するので、20荷の砂糖は約5,000キログラムとなる。
この当時のシリアでは、砂糖の販売価格は1キログラム当たり約0.227ディーナールであったから、5,000キログラムの砂糖は約1,135ディーナールに相当する。主食のパンの原料となる小麦は、100キログラムが1.56ディーナールであったから、これにもとづいて計算すれば、1,135ディーナールで小麦7万2756キログラムを購入できたことになる。
ところでエジプトを中心にみた場合、さとうきびの栽培、刈り取り、圧搾、粗糖(カンド)の生産、白砂糖への精製、販売はどのような仕組みのもとに行われていたのだろうか。
エジプトの各地で栽培されたさとうきびは、冬(12月―1月)の刈り取りの後、農場の近くに設置された圧搾所(マァサラ)で、すばやく圧搾と煮沸が行われ、円錐形の素焼き壷(ウブルージュ)を用いて褐色の粗糖の固まりがつくられた(第1回目「製糖の技術」を参照)。これらの粗糖はエジプト各地からフスタートの精糖所(マトバフ)へ運ばれ、ここで粗糖に水を加えてふたたび煮沸し、この工程を繰り返すことによって、上質の砂糖がつくられたのである。
スルタンやアミール(武将)、あるいは大商人などは、自らの所領でさとうきびを栽培し、粗糖をフスタートの精糖所で加工した後、これらの精製糖をカイロやアレクサンドリアに運んで販売し、大きな利益をあげることができた。
イブン・ドクマーク(1405年没)の記録によれば、14世紀ごろのフスタートには、合計で65の精糖所があり、スルタンやアミールばかりでなく、ムスリムやユダヤ教徒の商人も精糖所の経営に熱心に携わっていた。これらの数字は、砂糖の精製と販売が当時は「もうかる事業」であったことを明瞭に物語っているといえよう。
前述のサラーフ・アディーンの時代になると、エジプトを中心に「カーリミー商人」と呼ばれる商人グループが台頭してきた。カーリミーの語源はよく分からないが、最近は「回船(カーリム)の商人」が原義だとする説が有力である。12世紀末以降、カーリミー商人はアラビア半島南端のアデンでインド商人から中国産の絹織物や陶磁器、あるいは東南アジア・インド産の香辛料(胡椒・クローヴ・ナツメグ・シナモン・ショウガなど)や木材などを買い付け、紅海を渡って上エジプトのクースあるいはキフトでナイルの船に積み替えてから、これらの商品を首都カイロやアレクサンドリアまで運んでイタリア商人に売り渡した。
イタリア商人は、綿織物・木材・鉄・銅・武器・奴隷など戦争に必要な物資をムスリム側にもたらし、いっぽうカーリミー商人は、絹織物・陶磁器・香辛料などアジアの物産のほかに、エジプト産の砂糖・小麦・紙・亜麻織物・ガラス製品などをイタリア商人に提供した。イタリア商人とカーリミー商人のこのような取引は、12世紀以降、十字軍の時代(*注)に入っても着実に増大していった。13世紀には、ジェノヴァ、ヴェネツィア、ナポリなどの諸都市は、アレクサンドリアやカイロ、あるいはベイルートに商館(ファンダコ、「宿屋」を意味するアラビア語フンドクに由来)を建設して、安定した取引の維持をはかったとされている。
*注:聖地エルサレムの奪回をめざす十字軍は、1099年、エルサレムを征服してエルサレム王国(〜1187年)を建設し、その軍事行動は1291年に最後の拠点アッカーを失うまで続いた。