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江戸時代の砂糖食文化

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最終更新日:2010年12月27日

2011年1月

北九州市立大学 文学部 教授 八百 啓介



 我が国における砂糖の歴史は、古くは奈良時代の東大寺正倉院の『種々薬帳』にその名が見られるように、そもそもは中国伝来の貴重な薬種であった。やがて室町時代の『七十一番職人歌合』に「さたうまんぢう(砂糖饅頭)」、『庭訓往来』に「砂糖羊羹」の名称があらわれることから、この頃には明との勘合貿易などにより輸入された砂糖が菓子の甘味料として用いられるようになったと思われる。

 その後、16世紀半ばの戦国時代の末期にマカオからポルトガル船が九州各地に来航していわゆる南蛮貿易が始まると、おそらくは中国産の砂糖が安定的に供給されるようになる。最近のポルトガル船の積み荷の研究によれば、年間150キロ前後の砂糖が輸入されていたという。

 江戸時代に入ると17世紀から18世紀初期にかけて福建省から琉球・奄美に黒砂糖の製法が伝えられ生産が始まった。しかし白砂糖や氷砂糖は、18世紀末の寛政年間に国産白砂糖が上方市場に登場するまで、長崎に来航する唐船(中国本土や東南アジアからの来航船)とオランダ船(東南アジアから来航するオランダ東インド会社の船)による輸入に依存していた。

 長崎貿易により輸入された砂糖は、国内商人に落札された後、船で大坂道修町の薬種問屋へ運ばれ、さらに堺筋町の砂糖仲買によって江戸をはじめとする全国に運ばれていたという。

 今日、「江戸時代において砂糖は庶民の口には入らない貴重品であった」とか「輸入された砂糖はすべて船で大坂に運ばれた」という理解が通説となっている。

 しかしながら出島オランダ商館の帳簿や江戸時代の長崎や佐賀藩・福岡藩の史料、あるいは江戸に暮らした人々の記録を見るならば、これらの通説が制度のみで実態を反映していないことがわかる。

1. バラスト商品から投機的商品へ

 オランダ船にとって砂糖は当初は船の積み荷のバランスを取るバラスト(重り)商品に過ぎなかったが、17世紀に台湾やジャワ島へ多くの中国人資本・技術・労働力が移転したことにより重要な商品となる。たとえば江戸時代初期の平戸オランダ商館の時代には砂糖の輸入量は100トン程度であり輸入品仕入高の1%にも満たなかった。しかし江戸時代半ばには砂糖の輸入額は輸入品仕入高のおよそ30%に達している。出島オランダ商館の帳簿によれば、オランダ船による輸入のピークは宝暦9年(1759)の約1375トンであった。こうしてオランダ船による砂糖の輸入は年間500トンから1000トンに達し、唐船による輸入をあわせると1500トンから2000トンを超えるようになる。  

 出島オランダ商館の医師であったドイツ人ケンぺルによると、元禄5年(1692)の京都における輸入白砂糖の小売価格は100斤(60キログラム)あたり140匁(現在の貨幣にして1キログラムあたり約1600円程度)であった。高価とは言っても現在のおよそ10倍程度の値段であったのである。同年の長崎出島における白砂糖の輸入価格は100斤あたり97匁であったので、100斤あたり43匁が国内流通過程において上乗せされたことになるが、このうち10.76匁が長崎から上方までの輸送コストであった。

 元禄10年(1697)に長崎会所が設立されると輸入商品に対して輸入関税である掛り物が課せられるようになると、砂糖にはおよそ200%が課税され、落札価格は元値の300%、大坂での小売価格は500%に近いおよそ300匁近くとなった。さらに江戸時代後半の19世紀初期には砂糖は投機的商品となり、文化5年(1808)の出島における取引価格は100斤あたり69匁と下落するものの、国内における小売価格は100斤あたり660匁、すなわち現在の貨幣で1キログラムあたり5000円を超えることもあった。
図1 長崎日蘭貿易絵巻中の砂糖蔵の図
2. 貨幣的貿易品から都市下層民の嘗め物へ

 18世紀に入ると長崎会所を通じた正規の輸入ルートとは別に、長崎の役人に対する贈り物や丸山の遊女の貰い物、さらにオランダ船や唐船の荷役にあたる日雇人夫に対する手当である盈物(こぼれもの)の名目で大量の砂糖が長崎に流れ込むことに注目したい。

 出島オランダ商館の帳簿によれば、正徳五年(1715)より長崎における奉行・町年寄ら役人に対する砂糖の贈り物がはじまり、享保年間に入ると毎年100トンの白砂糖が贈り物に用いられた。1720年代の前半には、江戸での白砂糖の贈物を加えるとオランダ船により輸入された白砂糖のおよそ4分の1が贈物として用いられている。

 これら商品以外の砂糖は、個人の贈答の範囲を超えて明らかに転売を目的としていた。長崎という都市の性格を考慮するならば、砂糖はいわば権力や労働力やサービスの対価として長崎市民が獲得することができる貨幣的貿易品であったといえよう。

 天明6年(1786)には遊女への贈物である貰砂糖の販売利益が7万7200匁(現在の貨幣にして約7700万円)に達している。こうした大量の砂糖の存在を背景に、18世紀半ばには長崎にはすでに「砂糖屋」が存在しており、唐船・オランダ船の盈物(こぼれもの)砂糖を買い集める業者が33人も置かれていた(後に85名)。

 長崎周辺に流通していた砂糖を集計していくと、その量は輸入量の10%を超えるものと思われる。加えて長崎に隣接する佐賀・福岡の両藩は長崎警備の特権として、上方市場を通さず長崎において直接、砂糖などの輸入品を調達することができた。18世紀に入ると福岡藩は領内に唐物問屋・薬種問屋を定め、その安定供給を図っている。また佐賀藩は領内の長崎街道の宿場であった塩田町に唐物商売を許可し、砂糖座・薬種座を置いている。

 江戸においては砂糖屋が薬種屋から分立するのは19世紀に入ってのことと思われる。しかし18世紀後半に仙台藩藩医であった工藤平助が不要な舶来品の輸入を戒めた『報国以言』によれば、当時、砂糖輸入量の3分の1が菓子の材料であり、3分の2が「下賤の食用」「小買のなめ物」すなわち貧しい人々が空腹を満たす食用となっていたという。シドニー・ミンツが『甘さと権力』の中で指摘した18〜19世紀のイギリス産業社会の底辺労働者の貴重なカロリー源としての砂糖の役割は、商品経済と産業社会化が進展して封建社会が解体へと向かう18世紀後半のわが国においても見られたのである。
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