金平糖と砂糖
最終更新日:2011年7月8日
金平糖と砂糖
2011年7月
大阪糖菓株式会社 代表取締役社長 野村 卓
【要約 】
戦後の経済復興から高度経済成長まで、砂糖の需要は拡大しましたが、それ以降、「砂糖離れ」が進み、昨今、飲み物に砂糖を使わない人が増えました。しかしながら、コンピュータを使っての仕事の合間や勉強の休憩時間に甘いものを口にすると疲れがとれたり、集中力が回復するということで砂糖が少し見直されてきているようです。
砂糖が有り余る時代になっていますが、庶民の口に入るようになった歴史を知る人は多くありません。日本人が砂糖と出会ったきっかけのひとつがコンペイトウであったことなど、お伝えさせていただきます。
砂糖の歴史
さて、砂糖の原料であるさとうきびの記述が具体的に現れるのは、紀元前330年前後、当時のマケドニア王国のアレクサンダー大王のインド遠征の記録とされています。5世紀以降、インドを拠点に砂糖やその製法は世界中に広がっていきます。東方は中国・朝鮮に伝わり、西方へはイスラム教徒によりシルク・ロードを経てヨーロッパに伝わり、日本へは8世紀、奈良時代に遣唐使によって中国からもたらされたと推測されています。その当時から、砂糖は希少なもので、薬として使用されていました。
16世紀半ばにポルトガル人の宣教師などが来日し、コンペイトウなどの砂糖菓子を伝えました。しかし、禁教令が発布されポルトガル人が追放されてからは、オランダ人などから砂糖を輸入するようになっていました。
戦国時代のコンペイトウ
かわいい角のあるコンペイトウは、子供たちにはとても夢のあるお菓子で、又、ご年配の方には懐かしさを感じていただけるお菓子です。誰もが知っているコンペイトウなので、元から日本にあったもののように思っている方が多いですが、そうではありません。
今から460年ほど前、すなわち室町時代の末期の頃、九州の南にある種子島にポルトガル人が降り立ちました。その20年後、フロイスという名のポルトガル人宣教師が来日し、戦国武将の織田信長にコンペイトウを献上したことが記録にあります。
当時コンペイトウは「コンフェイトス」と呼ばれ、貴重な珍菓であったようです。「チャイナ・マーブル」も同様にポルトガルから伝来した南蛮菓子です。
江戸、元禄時代の金平糖
南蛮渡来のコンペイトウは100年ほど日本に存在していたのですが、禁教令が出されポルトガル人が追放されてからはコンペイトウの姿を見ることがなくなります。
ところが、江戸時代の初めに金平糖が手作りされます。菓子職人であった長崎の町人が金平糖に興味を持ち、二年にわたり研究を続け、遂に金平糖を完成させます。この男が大金持ちになった話が井原西鶴の『日本永代蔵』(副題、新大福長者教)に記されています。この頃、その名は漢字で「金平糖」と書き、芯に胡麻を使用していたようですが、その後、胡麻の価格が高騰したことから、芯は芥子(けし)の実に変わります。
18世紀初めに、八代将軍吉宗が国内でのさとうきび栽培を奨励しました。名古屋・和歌山・四国・九州で栽培され大量の砂糖が市場に出回り出し、全国に菓子職人が現れることになります。
明治時代の金平糖
江戸時代から明治時代の後半まで金平糖は鍋を使い手作りされていたのですが、明治時代の後期になって機械化されます。この頃は戦争の時代で、日清・日露戦争が起こり、兵隊用の軍事食料が必要とされ、日持ちのするお菓子が求められました。
これに着目したのが、大阪で砂糖商を営んでいた村上辰三郎氏です。現代の金平糖工場で使用されている機械の原型である「金米糖製造器」を考案しました。同氏はこの名称で特許を出願申請し、明治36年に特許を取得します。それに投資をしたのが、大阪で菓子問屋を営んでいた三谷為助氏。製造技術者の東海慶太郎氏と共に、西区に回転釜を20台据付けた工場を建設し、“金米糖”の大量生産を開始します。ということで、金平糖の量産化は「大阪が発祥の地」となります。
金平糖の機械・設備
金平糖の機械・設備の説明をします。
材質は鉄でできており、直径は1m80cm、深さが45cmあり、総重量は800kgという大きい平釜です。釜は30度ほど傾き据えつけてあり、その傾斜角度は製品の粒径に合わせ変えます。釜底にはガスバーナーが付いており、加熱してシロップの水分を蒸発させます。釜の回転速度は、1分間に2回転とゆっくりした動きです。
当社では金平糖の平釜を16台設置しています。金平糖の工場は釜が大きいことに加え、半製品在庫を多く持たなければならず、広い場所が必要です。
金平糖の製法
製法は、まず、グラニュー糖と水が3対1の糖度のシロップを鍋に用意し、平釜を急傾斜にして回転させ、ガスバーナーに着火します。第一工程は「丸め工程」と言い、金平糖の芯になるグラニュー糖を平釜に入れ、加温したグラニュー糖に柄杓でシロップを掛けていきます。この作業を2日間ほど繰り返し四角いグラニュー糖を丸くします。第二工程は「角出し工程」で、平釜の角度をゆるくして同様のシロップ掛け作業を繰り返します。一定の大きさになれば「味付け」と「色掛け」の第三工程となります。色を着けた後、「止め蜜」という第四工程を行います。これは、透明なシロップを金平糖の表面に掛ける作業で、最後の第五工程で行う「色混ぜ」における製品の色移りを防ぐ作業です。これらの5つの工程を2週間かけて造るのが金平糖です。「掛け物」と呼ばれる「金平糖」や「マーブル」は、「艶もの」とも言われ、ピカッと光っていないと値打ちがなく、輝くような製品を造るためには、何年もの年季をもつ職人の技術が必要です。
手間のかかる金平糖づくり
金平糖は1粒のグラニュー糖を芯にして、シロップを掛けながら大きくさせるお菓子です。直径1.5cmの金平糖を造るのに2週間(14日間)という日数がかかり、1日に平均1mmしか成長しないという、製造に大変手間のかかるお菓子です。
一釜の仕上がり量は単色100kgとなるのですが、普通サイズの金平糖は一粒が約1グラムなので、一釜で約10万粒ができ上がります。
製造工程の途中において必要なのが「篩(選別)工程」です。金平糖づくりでは「粒を揃える」ことが大切です。大小の不同があると値打ちがないことから金平糖を大きく成長させていく過程では、絶えず「篩器」を使って仕掛品の選別を繰り返します。
角ができる秘密
最後に、「角の秘密」をお話します。これは、かつて門外不出・秘中の秘と言われていたことです。
製造工程の二番目の「角出し工程」では、第一工程において造った丸粒を釜に入れます。30度に傾いた平釜が回転しており、丸粒は釜内の坂をゆっくりと上下します。これにシロップを掛けると、全体の表層にシロップが掛かかります。粒はお互いの接触により、全体にシロップが広がります。粒と粒の接触により、蜜液が付いたところがガスバーナーによる加熱で乾いて、小さな点(ポッチ)になります。そして、50くらいのポッチができます。次は、このポッチ相互の接触に変化し、ポッチの先にシロップが付き、少しずつ大きくなっていきます。この繰り返しにより、小さなポッチは角らしく成長していきます。しかし、全部のポッチが大きくなるのではなく、二つに一つは大きくなり、二つに一つは消えていきます。そして、最終的に、1粒の金平糖は24個の角を持つことになります。と言っても、絶対そうだというのではなく、平均すると24個くらいの数になるという不思議なお菓子が金平糖です。
手作り体験ができる「コンペイトウ・ミュージアム」
大体わかっていただけましたでしょうか? 金平糖はかなり物理的なお菓子で、このような難しいお話より、実際に手作り体験していただいた方がわかってもらい易いとのことから、大阪・八尾と堺にある「コンペイトウ・ミュージアム
(※)」では職人さんと一緒に金平糖の手作り体験ができる施設をつくりました。
(※)(八尾)〒581-0038 大阪府八尾市若林町2-88 TEL:072-948-1339
(堺)〒590-0904 大阪府堺市堺区南島町4-148-12 TEL:072-282-2790
URL:
http://www.konpeitou.jp/
金平糖の将来
皆さんは、日本全国に金平糖メーカーが何軒あるかご存知ですか。今では十軒にも満たないほどに減ってしまいました。かつて、大阪だけでも金平糖に関わる会社が40社ほどあったらしいのですが、現在ではおよそ1割が残っているにすぎません。
最近、『金平糖を見かけない。どこで売っているのですか?』と、よく聞かれます。『懐かしいなぁ』と言っていただく金平糖がなくなることのないよう頑張らなければと思っていますが、余りに手間を要するお菓子なので、よほど付加価値を付けなければ製造を続けるのは難しくなると考えます。父から受け継いだ金平糖にロマンを感じつつ、ユニークでオリジナリティのある製品の開発にこれからもどんどん挑戦して参ります。今後とも、かわいく懐かしい金平糖を応援していただきますよう、宜しくお願い申し上げます。
注.「コンペイトウ」および「金平糖」の表記について
・戦国時代までのものを指す場合:外国から伝搬した菓子であったことから「コンペイトウ」と
カタカナ表記
・江戸時代以降のものを指す場合:日本の菓子として発展したことから「金平糖」と漢字表記
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