内外の伝統的な砂糖製造法(2)
最終更新日:2011年8月9日
内外の伝統的な砂糖製造法(2) 〜日本の砂糖の歴史が変わった!?〜
2011年8月
うーん・・・・。歴史は変わる・・・・・。
悩ましい声からのスタートをお許しくだされ!
砂糖の専門誌だからこそ書かなくては・・・・!
日本の百科事典の類や、飲食の歴史関係の書物で砂糖の項目をみると、必ずといっていいほど、奄美大島の直川智が、慶長15(1610)年に「日本で最初」に奄美大島にさとうきびを植えて砂糖を作ったとある。この人物が、琉球に向かう途中に、中国に漂着して、砂糖の製法を覚え、さとうきびの苗を密かに持ち帰って大島に移植したというものである。この話は、鹿児島県史年表などに採用されてきたので、日本の産業史年表でも引用され、そしてさらにさまざまな書物に引用されてきたのであろう。
今回は、この定説として多くの書物に記されてきたことに対して、地元を中心に新たな説が定着しつつあるというお話。
関ヶ原の合戦が慶長5(1600)年、江戸幕府が開かれたのが慶長8(1603)年である。慶長年間というと、江戸初期であるので家康もまだ生きている。
慶長14(1609)年、薩摩藩が奄美諸島と琉球に侵攻して、奄美大島、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島を薩摩藩の直轄地にした。それ以前は、琉球王朝の領域であった奄美大島も、慶長15年ならば、薩摩藩の直轄地なので、「日本」であった・・・・・。
「慶長説」の疑問は、医学博士で郷土史家の渡口真清氏によって「糖業創始に関する文献について」と題して早くも昭和40年に発表され、次いで名瀬市編纂委員であられた所崎平氏によって、編纂委員会での議論をさらに追及して、昭和41年、「糖業創始・慶長年間説への疑問」というタイトルの論文が出された。そして、昭和43年刊行の『名瀬市誌 上』でも、史料に裏付けされた「元禄説」が紹介された。 そもそも、なぜ、慶長説が出されたのか?上記3文献からまとめてみると・・・。
1.明治13年、農商務省が綿工業と糖業を興そうとして大阪でおこなった綿糖共進会に、鹿児島県下の104人が砂糖を出品した。川智の末裔であるとされる、直嘉和誠も、初製黒砂糖20斤とさとうきび5根を、自身が明治10年の日付で記した「甘蔗由来書付留」を添付して出品した。この由来書付には、「古書ハ三代迄ハ持来リ居候得共、洪水之節雨濡ニテ相捨テ候哉ニ、代々申伝有之申候、就テハ古書等モ無御座実否相分レ不申得共、申伝ノ儘此段形行奉申上候」と、書き記した古記録は、川智から3代までは持っていたが、洪水の時の雨に濡れてしまったので捨ててしまったと、代々申し伝えられており、古記録もなく、言い伝えのままに書いたというものである。
2.綿糖共進会で、嘉和誠の先祖とする川智が、直姓を付けられて(江戸時代には士分ではないので苗字はない)、「直嘉和誠先祖 亡 直川智」に追賞が授与され、賞状と金百円が嘉和誠に与えられた。明治政府のお墨付きがついたのである。
3.慶長説が出された元となったのは、「甘蔗由来書付留」に「慶長年間の頃」となっているからである。しかし、いろいろな文献に「慶長15年」と書いてあるのは、明治40年頃に出された都成植義著『奄美史談』が最初であり、「慶長15年」の根拠は示されていないという。最近では史料の裏付けがないまま、政府のお墨付きを得たことで、「慶長説」が独り歩きしていったのではないかとの考え方が多い。
以下は、史料に裏付けられる日本の糖業の始まりは、奄美大島で元禄年間からという「元禄説」である。
「元禄説」を裏付ける史料には、3種ある。決め手となったのは、和家文書のひとつである。この史料は、慶応2年頃に書かれたものと推定されるが、和家のご先祖に富雄という人がいた。この人物が藩へ宛てた上申書の控えに、富雄のさらなるご先祖に三和良という人がいて、この人物が奄美大島に砂糖製造法を移植したというものである。この部分には、元禄元(1688)年(または2年)に現在の宇検村と大和村である屋喜内地区の行政区の検事・穂監督掛であった嘉和知のお供で、さとうきびの栽培から砂糖製造法の技術を習得するために、三和良が琉球へ派遣され、元禄3(1691)年(または4年)に帰島してさとうきびを試植したところ、砂糖の出来もよかったという内容が記されている。さらに、この時の代官である海江田諸右衛門が、書付をもってこれを褒め、これから段々とさとうきびの植え付けを増殖して、莫大な利益をもたらせたという。
これを記した和家文書は元禄年間に書かれた同時代史料ではないものの、『大島代官記』という史料から、元禄年間後期にかけて、奄美大島の砂糖製造に関して、藩が介入してきたことがわかる。大島に「黍検者」という製糖のことを命令・監督する役人が、薩摩藩から海を渡って派遣されてきたのが、元禄8年のこと。琉球へさとうきびの栽培法と砂糖製造法を学んで2人が戻ってきたのが、元禄3年か4年なので、4〜5年の間で砂糖製造が軌道に乗ったことを示唆している。また、元禄10年には、島出身の「黍横目」という在地役人が置かれた。
そして、もう一つ、有名な史料である江戸時代末期に奄美大島へ流刑された名越左源太が記した『南島雑話』にも、「黍は元禄十一年、大和浜、西浜原に植付相試候歟・・・」と、年号の違いはあるものの、やはり元禄年間における製糖の記録がみられる。
80年近くの差はあるものの、さとうきびを栽培して砂糖製造を行った「江戸時代当時」の「日本初」の冠は、奄美大島の大和村であることは変わらない。
郷土の人々がかつて行ったことに関して、簡単には否定しづらい。郷土愛は、きっと同じようにもっていた先人たちが行ったことだから・・・・。しかし、史料の裏付けのないことよりは、「史料」の裏付けがある「史実」を踏襲して、市町村史誌や研究誌において製糖発祥に関する新たな説を採用した。これが、奄美大島の人たちから発せられていることに、心を打つ。
これぞ、本当の郷土愛!
海に囲まれた奄美大島の人々・・・。懐は、海よりデッカイ!
参考文献
渡口真清「糖業創始に関する文献について」『沖縄文化』第15号、昭和40年
所崎平「糖業創始・慶長年間説への疑問」『奄美郷土研究会報』第8号、昭和41年
改訂名瀬市誌編纂委員会編『改訂名瀬市誌1巻 歴史編』平成8年
大和村誌編纂委員会編『大和村の近世』、平成19年
大和村誌編纂委員会編『大和村誌』、平成22年
弓削政己「近世奄美諸島の砂糖専売制の仕組みと島民の諸相」『和菓子』第18号、平成23年
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