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内外の伝統的な砂糖製造法(9)

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最終更新日:2012年3月9日

内外の伝統的な砂糖製造法(9)
〜幕府の役人も伝授を受けた長府藩の砂糖製法〜

2012年3月

昭和女子大学国際文化研究所 客員研究員 荒尾 美代

 幕府が砂糖製造法の研究を続ける一方で、地方では独自の砂糖製法の研究がなされていた。今回は、幕府の役人がわざわざ江戸から長府藩領に出向いて砂糖製造法の伝授を受けたという製造法をお伝えしよう。


 長府藩は、萩藩(長州藩)の支藩で、現在の山口県下関市あたりになる。

 長府藩は和砂糖の製造に成功し、大坂の菓子屋等から買い取りたいという要請があり、宝暦6(1756)年6月に、藩主毛利文之助の名で、大坂で和砂糖1万斤を販売したい旨を幕府に伺いを立てた。1万斤というと、1斤が600グラムであるので、実に6トンもの砂糖である。

 この伺いを受けて幕府は、吹上御庭の砂糖製作技術者を長府藩領へ派遣するので製法を伝授してほしいと、同年8月、逆に長府藩に通達してきた。江戸城吹上や浜御殿で行われていた幕府による砂糖製造は、まだ成功していなかった模様である。

 一方で、1万斤もの砂糖を販売するというのは、「密貿易による抜け荷では?」と、その可能性を幕府が疑ったようである。この頃に流通していた砂糖は、唐船とオランダ船が長崎に舶載してくる輸入砂糖と、薩摩藩ルートの奄美大島・徳之島・喜界島・琉球産などの黒砂糖であったので、海に面している長府藩は、唐船による密貿易を疑われたとみられる。

 幕府から派遣されたのは、実際に技術伝授を受ける吹上奉行支配の岡田丈助と池永軍八、そして差し添えとして、御陸目付組頭の伴勘七郎、御陸目付の田口八郎右衛門、御小人目付の持田只七と瀧又四郎の目付職の人間であった。また、長府藩の宗藩である萩藩からも、江戸在住の御小納戸役人である上野市右衛門が付け周り役として、幕府方と同道した。

 幕府方は、宝暦6年9月3日から翌年4月10日まで、約7ヶ月もの間長府藩領に滞在し、さとうきび畑の実地見分を行い、且つ砂糖製法を伝授された。

 伝授にあたったのは、安岡浦という地(写真1)の大庄屋である内田屋孫右衛門と弟の吉大夫で、3男である独嘯庵どくしょうあんは山脇東洋に弟子入りした医師でもあった。新しい砂糖事業への挑戦の陰には、農民であっても大庄屋という階層ならではの資金力があったことは、想像に難くない。
 見分と伝授の経過は、これに立ち会った萩藩の『長府御領砂糖製作一件』(山口県文書館所蔵)(以下『一件』と記す)にまとめられている。

 まず、内田屋方の砂糖製作所の見取り図からみていくことにしよう(写真2)。
 道に面して砂糖製作所が設けられている。道に面した門から入ると、そこにはさとうきびの茎を圧搾する「〆道具」が描かれている。圧搾場が、さとうきびの茎を運搬してきてすぐの場所の屋外に設置されているのは、製作工程から考えて、無駄のない動線といえよう。圧搾場には、3本のローラー式圧搾機と思われる図が描かれている。前号で紹介した『天工開物』に描かれた圧搾機は、2本のローラーが垂直に立てられ、その間にさとうきびを差し込んで圧搾するというものであったが、この図では3本描かれているので、2カ所から差し込むことができ、圧搾率はより高いといえる。

 圧搾場から「煮所」へ入る戸口には、「御用黍製作場所」と掛札がかけられていて、「煮所」と「晒所」は、建物の中にある。

 「煮所」には、鍋を二つかけることができる竈が2組描かれている。萩藩の付け周り役の上野市右衛門が見た記録では、平釜が4つで、その釜の上には、煮こぼれないように底のない甑(こしき)(古代中国を発祥とする米などを蒸すための土器)のような井がわを置くとしている。

 「煮所」から「晒所」に入るところには、「御用の他入るべからず」と記され、錠前がかけられていて、製法を秘匿しようとしていたことが窺われる。

 「晒所」には、桶の上に「晒瓶」が設置されている様子が描かれている。


  では、どんな砂糖製造法を伝授されたのか?


 『一件』には、砂糖の種類を示す言葉として、「黒砂糖」「並砂糖」「臼砂糖」「白砂糖」「上砂糖」「大白」「三品」「三盆」「銀砂糖」「氷砂糖」「蜜」「蜜之黒砂糖」「唐砂糖」「向砂糖」「渡り砂糖」「常之砂糖」「買砂糖」「和砂糖」と、実に多くの語が出現している。『一件』は、多くの人物による聞き書きや文書などであるので、同一種類でも、人によって異なって使用されている名称もあると考えられる。

 「和砂糖」は、国内で生産された砂糖の総称として使われ、「唐砂糖」「向砂糖」「渡り砂糖」「常之砂糖」「買砂糖」は、唐船やオランダ船などによって輸入された砂糖か、薩摩藩ルートの黒砂糖を指していると考えられる。

 これらの表現以外は、基本的には砂糖自体の色や状態、そして品質から名付けられた名称であると考えることが出来る。

 江戸より派遣された萩藩の上野市右衛門と、長府藩内で実際に砂糖を製作していた内田屋孫右衛門による問答から、ザッとではあるが、砂糖の違いがわかる。

1.「黒砂糖」を作ってから、「白砂糖」を作るのではなく、まず「並砂糖」を作る。煮始めは黒いが、それを晒して、白目の「並砂糖」を作る。11月にさとうきびを刈り取って圧搾し、20日間かけて「並砂糖」を作る。

2.「並砂糖」から「大白」、その「大白」から「臼砂糖」を作るのではなく、「並砂糖」から「臼砂糖」を作る。はじめから「臼砂糖」を作るのではない。そして翌年の3、4月迄かかって「臼砂糖」を作る。

3.「大白」と「臼砂糖」は、様相が異なり、「臼砂糖」が極上品である。

4.「並砂糖」から「氷砂糖」を作ることが出来るが、「臼砂糖」とは、その様相が格段に違う。


 幕府方が伝授された砂糖の名は、内田屋兄弟が、「並砂糖」と「臼砂糖」と呼ぶ砂糖であった。

 製法を知ることによって、その様相が初めてわかるといっていいが、この史料の中に、特に「並砂糖之作り方」や「臼砂糖之作り方」などという項目はないので、膨大な文中から読み取る他はない。

 では、まず、「並砂糖」の製法を読み取ることとしよう。この「並砂糖」の作り方は2、3通りあったという。

 先に見た製作場の図の上部に製法の概要(写真2の上部)が記述されている箇所があり、この製法が「並砂糖」の第1の方法であったのではないかと考える。

 その製法は以下のとおりである。

1.「晒瓶」は嬉野か筑前か尾州にて焼き、12貫目(約45キログラム)入りである。

2.「晒瓶」の底には、植木鉢の水が抜けるような穴が開いており、圧搾したさとうきび汁を煎じて、薬を入れ、「晒瓶」へ入れると固まる。

3.「晒瓶」の下の桶に落ちる雫は、蜜と言う。

4.「晒瓶」の深さは1尺で、1寸晒してはその部分をすくい取って、その跡を又晒し、それを繰り返して日を重ね、晒し取る。

 2と3は、さとうきびの汁を煎じた濃縮糖液を底の穴を塞いだ上で「晒瓶」へ入れて、部分的に結晶化して固化するのを待ち、その後、「晒瓶」の底の穴に詰めた栓を取り除いて、結晶の周りに存在している蜜が、重力によって下に落ちるのを待つことを表していると考える。 その結果、蜜に含まれている黒色成分も下に落ち、「黒砂糖」よりも黒味が少ない砂糖の固まりが「晒瓶」内で出来上がる。

 4の工程は、「晒瓶」の中で固化している逆円錐状の砂糖の上部表面に土を置いて、砂糖の表面付近の分蜜された砂糖をすくい取り、その跡にまた土を乗せて「覆土法」を行って、またすくい取り、これを繰り返し行って「晒瓶」内の砂糖をすべて取り出すと解釈できる。さらに、「すくい」という表現から、まだ湿り気を帯びていた状態であったことが考えられる。

 「晒所」には、素焼きの「晒瓶」の他に、10斤晒し、8斤晒しという器物が沢山有ることを市右衛門は観察している。上部から徐々にすくい取った砂糖を入れた器物を指しているのではないかと考える。12貫目入りで、高さが1尺の「晒瓶」に入っている砂糖を、上からすくうと、おおよそ10斤(6キログラム)、8斤(4.8キログラム)と底辺部にいくにしたがって、すくい取った砂糖が少なくなっていくので、その器物ではないかと考えられる。

 この場合の砂糖は、小さな塊状か砂状であったと考えられる。

 このように「覆土法」を施して、「晒瓶」の中の砂糖を分蜜させては取り出していく方法が、「並砂糖」製作の1つの方法であった。


 「並砂糖」の第2の製法は、「晒瓶」内に存在する蜜が重力によって下に落ちるのをある程度待ってから、固化している逆円錐状の砂糖の上部表面に最低一度「覆土法」を施す方法である。これは、閏11月4日に、「並砂糖」の見分が行われた時に、土を取り除く様子が観察されているので、「覆土法」が明らかに一度は行われていたことを示している。この時は、「晒瓶」の中に入っている状態の砂糖を見分しているが、その後、「干立」と「せり立」という表現があるので、「晒瓶」の中から、固化している逆円錐状の砂糖の塊を取り出して、壺などの上に差し込むように置くか、または何か固定する補助具を使用して逆円錐状の砂糖を固定させて、立てて干したと考えられる。  

 この場合の「並砂糖」は、大きな逆円錐状の砂糖の塊のままであったと考えられる。


 確認できる「並砂糖」の様相は上記2点であるが、「黒砂糖」とは違って、分蜜が促進された砂糖と言うことができよう。


「臼砂糖」について

 「臼砂糖」作りには、翌年の4月までかかった。「臼砂糖」の作り方について、具体的な記述がないが、10月に「買砂糖」から実験的に「臼砂糖」を作る事を記した記事によると、その購入した砂糖を煎じて「晒瓶」へ入れている。すなわち、「臼砂糖」作りには、「晒瓶」での固化を図ることが不可欠であったことが窺われる。

 そして、「臼砂糖」作り用の土を見分している記事があるので、「臼砂糖」作りにも「覆土法」が行われていた。

 「臼砂糖」に使用される「臼」の呼称は、砂糖の形状に由来すると思われる。

 「晒瓶」の底は、植木鉢のように穴が開いており、濃縮糖液を入れる前に藁などで穴を塞いだとしても、底が密閉されているわけではないので、半固化状態の上部中央部が陥没して凹状になることが考えられる。その形状から「臼」という表現が生まれたのではないかと考える。

 孫右衛門の弟吉大夫は、およそ「並砂糖」20斤から4斤の「臼砂糖」が一つ出来ると話している。このことより、逆円錐状に固化している砂糖のうち、上部5分の1が「臼砂糖」となると解釈できないであろうか。

 また、臼の大きさは好み次第になると吉大夫は話しており、「晒瓶」に入れる濃縮糖液の量が少なければ、全体が小さな逆円錐状で固化した砂糖の塊となり、臼状の上部部分も小さくなることが考えられる。

 幕府方は、4月7日までかけて、晒し上げている。そして、最終的に幕府方が得た「臼砂糖」は、「一臼十三四斤程」であった。先の「並砂糖」20斤から4斤の臼が1つ出来る記事に比べて、かなり大きな「臼砂糖」を約5カ月かけて作ったことが確認される。「晒瓶」の大きさが、12貫(約45キログラム)入るので、「晒瓶」の上まで満たすように濃縮糖液を入れると、13〜14斤は7.8キログラム〜8.4キログラムなので、ちょうど上部の約5分の1が「臼砂糖」になったと考えられる。


 内田屋兄弟が分蜜法として用いた「覆土法」は、「並砂糖」および「臼砂糖」の製作工程で確認したが、使用された土について、「並砂糖」用の土と、「臼砂糖」用の土が同じであったのか否かは不明である。また、どのような土であるのか、土の色についても具体的には記されていない。しかし、わざわざ見分したことから類推すると、特別な土であったと考えられる。

 そして、「並砂糖」作りの過程の頃にあたる閏11月1日に市右衛門による観察記事によると、「土がまだ・・乾いていない分(傍点筆者)」という表現があるので、水分を含んだ土を乗せていたのは確かである。しかし、水分量の目安となるような表現はない。

 また、吉大夫の言葉で、3月4月までに至らずに、早く晒すと、減目が多いと答えている箇所がある。これは、水分を多くふくんだ土で何回も短い期間に「覆土法」を行うと、その水分がどんどん落ちていくことになるので、黒色成分を含む蜜のみならず、ショ糖の結晶分も溶解してしまうことを示していると考えられる。


 次に、「覆土法」の効果について、この史料から新たな知見を得た観察記録があるので、それを紹介したい。

 先の閏11月1日の市右衛門の観察記事に、「土へ蜜を吸い取っているように見えた」という記述を見つけた。そして、この時の土は、「干し反り」とあるので乾いていたことと、「土が艶光り」していたのを市右衛門は観察している。黒色成分を含む蜜が、乾いて反り返っている土の方へ吸い取られ、土の表面に艶があって光って見えたものと考えられる。

 蜜を吸い取っているように見えたのが、すでに土が乾いていたものであったというこの観察記事から、土を乾かすことにも意味があったのではないかと私は考えた。土が含んでいる水分の滴下効果によるゆるやかな洗浄のみを期待していたのであれば、土が反るほど乾くのを待つ必要はなく、土が完全に乾燥する前の状態で、改めて水分を含んだ土に替える方が効率的であると考えられるからである。

 覆土の水分は、ゆっくりと滴下して、固化した砂糖の方へ移動していく。この移動および自然乾燥によって覆土はやがて乾く。その結果、砂糖の塊の方には水分があって、土の方には水分がない状態になることが考えられる。この状態で起こりうることは、「毛管現象」を主とする作用によって水分を含んだ蜜が上昇して、乾いた覆土の方へと移動すると考えられた。


 この史料と出会って、10年以上経つ。

 私の研究テーマである砂糖製造法の中でも、摩訶まか不思議な土を使って白くするという方法は、単に水分による洗い流しだけではなく、土が乾いたときにおこりうる「毛管現象」を利用した方法でもあったと、新たな説を付け加える、「証拠」となった史料だった。

初出文献

 荒尾美代「宝暦年間(1751-1763)における長府藩の砂糖生産―「覆土法」を中心にして―」『化学史研究』第30巻 第4号(2003)、205-217、化学史学会。

 博士論文「江戸時代の白砂糖生産法―「覆土法」を中心に―」2004年度(昭和女子大学)にも所収している。
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