内外の伝統的な砂糖製造法(12)
最終更新日:2012年6月11日
内外の伝統的な砂糖製造法(12)
〜「産官学」のコラボレーション、明和から寛政年間の砂糖製造法〜
2012年6月
昭和女子大学国際文化研究所 客員研究員 荒尾 美代
江戸時代の砂糖生産の研究から実践は、まさに、「産官学」のコラボレーション。
幕府が砂糖の国産化を目指した事情については、唐船やオランダ船によって舶載されている砂糖の輸入代が膨大になってしまったという、国の財政問題を抜きには語れない。だから吉宗時代以降、「官」がまず旗をふった。そして「学」は、本草学者らによる中国の文献調査、および前号で紹介した田村元雄らによる実践研究。しかし、実際にさとうきびを栽培して、砂糖を作るのは農民である「産」である。このように、「産官学」と捉えると、この時代の協力関係が理解しやすいことに気がついた。
元雄は宝暦11(1761)年5月に、「砂糖が出来た!」と、江戸幕府の勘定奉行である一色安房守に自身が製作した砂糖を見せたところ、冬から売り広めるように言われた。しかし、元雄は、医者の身であるので、代わりに武蔵国大師河原の名主、池上太郎左衛門幸豊を推薦した。
幸豊は、幕府が栽培していたさとうきびの苗を受け取り、元雄の指導のもと、砂糖生産の普及に向けて本格的に取り組むようになる。まさに、「官」のさとうきびの苗を使い、「学」の指導の下、農民である名主が「産」を担って関東で砂糖生産の普及に漕ぎ出した瞬間だった。
幸豊は、さとうきびの栽培に適した土地探し、そして幕府から下賜されたさとうきび試植に苦労した。栽培に成功しなければ、砂糖製造にこぎつけられない。それでもやっと砂糖の試作に成功したのが、明和3(1768)年のことである。
同年10月27日に、幸豊は、大白、中白、黒の砂糖3品を役所へ差し出した。さらに同日、御側御用取次であった田沼意次へ製法を見せたいと申し出た。
11月18日と19日には、田沼意次の上屋敷の書院御庭へ諸道具を運び込み、甘蔗の圧搾工程と煮詰め工程を見せた。
翌日20日には、関東郡代伊奈半左衛門の役所で同様に実践して見せた。
この時使用した甘蔗汁は甘蔗約22本相当分で、白用の甘蔗汁は4合、黒用の甘蔗汁は1升という、少量での製作であった。この際の製法の詳細が残されている。幸豊が初めて成功した方法として位置付ける事が出来ると考える。その甘蔗の圧搾と煮詰めの方法は以下のように記述されている。
1.甘蔗は、黒用も白用も同じ種類であるが、白は実入りが多い所の皮を除いて、1度目の絞り汁を用いる。一方黒は、白用に1度絞った後の甘蔗から再び汁を採ったものと、実入りがよくない部分を皮付きで絞ったものを用いる。
2.茎を絞った圧搾汁は、沸き立つまで火を強くし、それ以後は弱火にする。白用は、沸き立ったら浮いてくるアクをすべてすくい取り、黒用はそのままにしてかき回しながら煎じ混ぜるだけである。
3.甘蔗汁が半分に煮詰まったら、灰を入れる。絞り立ての甘蔗汁1升につき灰の重さは約3分程である。白用・黒用共に入れる。2回ほど沸き立ったら火を引いて、灰を漉す。白用は随分と念入りに、黒用は大方に漉す。
4.その後は火を弱火にし、食の取り湯〔重湯〕*のようになった時に、砂薬を入れる。この薬は極秘である。甘蔗汁1升につき砂薬の重さは約2厘程で、黒白用共に同様である。この薬は漉さない。
5.その後はさらに火を弱くし、随分と粘りが出てきて、それを水中に落として竜眼肉〔ライチに似た熟した果実を半乾燥させた漢方薬に用いる生薬の1つ〕のようになった時が煎じ揚げの頃合いである。 *〔 〕内は筆者による補いである(以下同じ)。
煮詰めた濃縮糖液は、何か容器に入れたと思われるが、どのような容器に入れたかは不明である。いずれにせよ、少量の製作であるので、大きな容器ではないだろう。
さて、その後の結晶化の様子と分蜜の仕方が興味深い。
煮詰め工程が終わって、家に帰った幸豊は、その後、12月朔日付で、そろそろ結晶化してきている頃だと思うので、伺いたい旨を記した書付を、田沼意次のもとへ出した。2日には、田沼の家臣井上寛司から、結晶化していると返書がきた。
同月朔日付で同様に伊奈半左衛門へ出した書付には、結晶化してきていなかった場合には、度々少しずつ温めてほしいということが付け加えられていた。
幸豊は同月16日に田沼邸に出向き、先月作った砂糖の状態を見て、まず絞り、白の方は猪口を2つ所望してその中に入れ押し付けている。
17日には、伊奈半左衛門の役所に行き砂糖を見たところ、乾いていなかったので、火鉢で黒白共に温めている。
翌年1月28日には、再度伊奈半左衛門の役所の砂糖を見に行き、白砂糖を絞っている。 以上のように、幸豊が明和3年から4年にかけておこなった分蜜法は、「絞る」「押し付ける」という簡易な「加圧法」であった。
幸豊は、植木鉢のように底に穴が開いた「瓦溜」を使用しないでも、「絞る」「押し付ける」という「加圧法」を行えば、分蜜出来ることを知っていたことになる。
「絞る」「押し付ける」という「加圧法」は、その後、「瓦溜」による第1の分蜜と、「覆土法」による第2の分蜜を行わない「和三盆」の生産技術の基底をなす製法として特筆に価する。すなわち、この方法が江戸時代後期になって突如出現したのではなかったのである。
しかし、幸豊は、「覆土法」による砂糖製造も実践していた。
幸豊側の史料を読み解くと、結晶および結晶と蜜が存在する状態が、分蜜法を決定する要因であることが示されていた。
結晶の大きさは、甘蔗の状態や煮詰め加減によって大きくも小さくもなったが、煮詰め加減の方が影響は大きいと幸豊は考えていた。そして、結晶が小さければ「覆土法」を施してはならないとも考えていた。
「絞る」という「加圧法」は、結晶が下に沈み上部に蜜が存在している場合、「覆土法」を施した後に蜜がうまく抜けていないと考えられる場合に行うことが認められた。すなわち第1段階の分蜜によって行う場合と、第2段階の分蜜後においても行う場合が考えられた。
このように、長年砂糖製造の研究と実践を重ねていくうちに習得した、実践者ならではの勘とコツ。ジュースや糖液の糖度を測る糖度計がない時代、加熱温度をみる温度計がない時代。まさに職人ワザが、砂糖製造には必要だったのだ。
幸豊は農民への普及者として貢献した。自宅で伝授を行う他に、自らが廻村して伝授するという方法をとり、安永3(1774)年、天明6(1786)年、天明8(1788)年と3回にわたって、合計20カ国余り131カ村の農民ら152人へ砂糖生産法を伝えたとされている。しかし、一子相伝という誓書をとっての伝授であった。まだこの頃までは、砂糖製造法は、「秘法」とされていたのである。
寛政年間に入ると、「官」である江戸幕府も動き始めた。
さとうきびの栽培の普及は広まりつつありながらも、まだ各地に定着したとは言い難く、また砂糖製作についても、道具が必要であることから、及び腰になっている者もいた。また、関東では、さとうきびがそもそも温暖な地で生育する植物であるため、なかなかうまくいかなかった模様である。
幕府の吹上奉行添である木村又助は、幕命を帯びて寛政2(1790)年に紀州に赴き、そこで、オランダの製法伝授者の安田泰なる人物から、製法を伝えられた。「秘法」とされていたが、さらに命が下って、又助は『砂糖製作記』という刊本を寛政9(1797)年に記した。この書物は、江戸幕府による砂糖製造法の初の刊本である。幕府としては、製法を秘伝としていては砂糖製作の普及が進まないと考えたのである。そして、「余りある不毛の地まで開拓してさとうきびを植えれば、天下の利益になることは限りない」と、土地の有効活用にまで言及している。
なかなか進まない砂糖の国産化に痺れをきらした「官」の出馬といったところか!?
この史料には、製造道具の図が多く示されているので、どのような道具を使用していたのかがよくわかる。
圧搾する機具は、ローラーの間にさとうきびを挟んでジュースを取り出す轆轤を用いる。この『砂糖製作記』には、5つのタイプが示されている。轆轤を回すには、人が2人(写真1)または4人(写真2)で押す人力か、川の流れを利用する水車による水力の絵が示されている。水力を利用し、あり合わせの木を使用した横型のローラー(写真3)、さらに手動の小さな横型のローラーなど、小規模の砂糖生産者へ向けての配慮がみられる。
また、黒砂糖の項目では、このようなローラー式の圧搾機を使わなくても、さとうきびの茎を寸々に切って、油を絞める道具や渋を絞める道具でジュースを取り出しても良いと、あり合わせの道具の利用を教えている。この他にも、黒砂糖の項では、あり合わせの鍋や釜で、さとうきびのジュースを清浄することも行わず、煎じ詰めることを説いている。さとうきびの栽培に成功したら、「黒砂糖はあり合わせの道具でも作ることができる!」というメッセージを込めて、ハードルを低くして砂糖製造のPRを行っているのだ。この部分に、「本気で普及しなければ!」という幕府の意気込みを、私はみるのである。
次に圧搾工程が終わった後の煮詰め工程を、「大白砂糖」の項から図を参照していただきながらみていくことにしよう。煮詰める竈の設備は、前から見た部分と、壁の裏側から見た部分の図が描かれているのでよくわかる。右側が釜屋の表。釜が3つ、その上に甑が掛けられている。澄桶は半釣で固定されている。木の扉で、釜側と火を焚く竈側の行き来が出来るようになっており、左側が釜屋の裏。黒い釜の底が描かれている。(写真4)。
1.さとうきびを絞り、ジュースを取り、溜桶(写真5の右上)に入れ、ジュース1石につき石灰30匁入れてかき混ぜておくと、三時(約6時間)ほどすると、石灰は桶の底に沈む。
2.その間に、釜の内側を浮石で磨き、胡麻の油を引いておく。
3.釜に漉水嚢 (写真6の左上)を当てて、溜桶の〔下部に設置してある〕嘴口 から漉し入れる。
4.火を焚いて、釜の中が松風 〔沸騰する一歩手前の状態〕になった時、不純物は上に煮え浮かんでくる。このタイミングで、竈の火を急いで止めて、浮いている不純物を柄水嚢 (写真6の左下)で良くすくい取り、再び火を焚くと、どんどん不純物が出てくる。この時に、火を片側に寄せれば、釜の中の不純物も片側に集まり寄ってくるので、また水嚢 ですくい取ることを数度繰り返し、不純物が出尽くすのを待って、火を引いて、濡莚 を竈の中に入れて火を消す。
5.澄桶 (写真6の右下)を釜の両方に於いて、糖液を汲み入れ、線香3本ほど焚き尽くす間澄ますためにそのままにしておく。そうすると、残った不純物は、悉く桶の下に沈む。その間に、釜の内側を前のように磨いておく。
6.再び釜に漉水嚢を当てて澄ましておいた糖液を、〔澄まし桶の下部に設置してある〕嘴口から釜へ移し入れ、火をゥ焚 に強く焚く。
7.泡が立って煮え溢れそうになるときは、水嚢または柄杓 (写真7の左下)で度々すくい上げて、溢れ出ないようにする。
8.7、8分に煎じ詰めて大泡が立った時、茶碗に水を入れ、煎じ詰めた濃縮糖液を殻杓子ですくって、水に落とし、状態をみる。〔加熱終了のタイミングは、落とした濃縮糖液が〕水中で輪になった時である。急いで竈の中の火を取り出し、濡莚を竈に入れて、残っている下火を湿して消火する。
次に「大白砂糖」の分蜜工程である。
1.濃縮糖液を、下の穴は木で栓をした瓦漏(写真7の上)に入れる。風に当て、人肌に冷める迄の間に、匙という木板(写真7の右下)で、4、5度掻き混ぜる。掻き混ぜすぎると、蜜が結晶に交じって乾かなくなる。
2.一夜経って、瓦漏の中の砂糖が乾くのを待って、瓦漏の底の穴に差し込んでいた木の栓を抜き取り、杉の葉か廢爆で栓をして置いておくと、蜜がこの間から滴り落ちる〔写真7の中央の蜜溜は、固定された瓦漏の下に置いておく〕。
3.約14、5日過ぎて、瓦漏の中の砂糖がよく乾いてきたら、黄土を練って、砂糖の上面を塗り塞ぎ、風に当てておく。
4.土が乾いて折れるのを目安として、土を取り、その下の砂糖を取る。
5.何度も黄土を塗って、だんだんと砂糖を取っていく。
このように、「覆土法」による分蜜法が示されている。幸豊が実践していた、「搾る」「押しつける」という「加圧法」による分蜜は、全く提示されていない。また、現在の「和三盆」製造技術である、押し船による「加圧法」も示されていない。幕府は、「覆土法」による分蜜法を推進していたのである。
この幕府による又助の『砂糖製作記』の刊行から約20年後の文政元(1818)年、幕府は本田畑へのさとうきびの植え付けを禁止した。禁令が出るほど、本田畑にさとうきびを植えつける人々が多かったのだ。このことは、国内生産が本格的に軌道に乗りはじめたことを示している。 幕府にとっては、痛し痒し!?
―史料と参考文献―
幸豊関係については、川崎市市民ミュージアムに、膨大な史料が所蔵されている。砂糖生産については、川崎市市民ミュージアム編『池上家文書(三)』(川崎市市民ミュージアム,1998)と、同編『池上家文書(四)』(川崎市市民ミュージアム,2000)に翻刻されているものもあるので、参照されたい。
なお、本稿の論点の初出は、(1)荒尾美代「明和から天明年間における池上太郎左衛門幸豊の白砂糖生産法―精製技術「分蜜法」を中心にして―」『風俗史学』第28巻(2004)、2-26、日本風俗史学会、(2)荒尾美代「寛政年間における池上太郎左衛門幸豊の白砂糖生産法―精製技術「分蜜法」を中心にして―」『科学史研究』第44巻 No.233(2005)、33-38、日本科学史学会、および博士論文「江戸時代の白砂糖生産法―「覆土法」を中心に―」2004年度(昭和女子大学)にも所収している。
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