昭和女子大学 国際文化研究所 客員研究員 荒尾 美代
2012年5月号で、幕府が寛政9年に『砂糖製作記』という刊本まで出して、積極的に砂糖製造を推進したということを書いた。この中で、幕府が推進していた砂糖製造法は、植木鉢のように底に穴が開けられた容器「
瓦漏」の中に、まずその穴を塞いだ上でさとうきびジュースを煮詰めた濃縮糖液を入れて結晶化を待ち、その後穴の塞ぎを取り除き、非結晶分である黒い蜜(モラセス)を重力によって下に落とすという第一の分蜜法を採るものであった。その後に行うのが、「瓦漏」の中で半固化している砂糖の塊の上部に、水分を含んだ土を乗せて第二の分蜜を施す「覆土法」だ。
土を使うという、摩訶不思議な方法。
覆土の効果は、土に含まれる水分の滴下によって、結晶の周りに存在している黒い蜜を洗い流す他に、覆土が乾いた時に、毛管現象によって覆土側に蜜が上昇して分蜜もされるという新たな知見を得たことを2012年3月号と5月号で紹介した。
近年、考古学の発掘調査の成果から、植木鉢様の「瓦漏」が日本で出土している。この容器を見て、砂糖製造に使う「瓦漏」では?と最初に着想したのは、大阪府泉南市教育委員会の岡一彦さんだ。
発掘された「瓦漏」を見せていただくために泉南市を訪ねた。泉南市は和歌山県のすぐ近くなので、東京より暖かい。暖かい地で生育するさとうきびには、適した地だと実感できる。
大阪府の南部、泉州地域に位置する泉南市の
幡代遺跡は、平安時代後期・室町時代・江戸時代の3期の盛期が確認されている遺跡である。
平成5 (1993)年の発掘調査では、18世紀後半から19世紀前期の廃棄土坑から、多くの陶磁器や瓦などが発掘された。その中に、植木鉢のように底に穴の開いた遺物を見つけたのだった。(『泉南市文化財年報 No.1』(1995年))
「これはなんだろう・・・」。岡さんは、規格的で、大きさが決められており、また、底に開けられている穴は、容器を焼く前に意図的に開けられていたことなどから、産業で使われたものではないかと考えた。そこで、パラパラと民具や道具の絵を載せた本をめくっていた時に、砂糖生産用の道具に、植木鉢のように底に穴のあいた容器の絵を見つけたのである。
しかし、これだけでは、これまで紹介してきたような、植木鉢のように底に穴の開いた分蜜容器である「瓦漏」とは、断定しがたい。それを裏付けたのは、江戸時代の後期にこの泉州では、砂糖生産が行われていたことを記す文字史料だった。
江戸時代の農学者である大蔵永常も泉州での砂糖製法を見たことを、文政年間前期(1817年〜)にはその大綱が出来上がっていたと考えられる『甘蔗大成』の中で記している。また、泉州の地方文書にも、天保12(1841)年以降ではあるが、砂糖製造を示す史料がいくつか見つかっている。
その後の発掘でも、同遺跡から「瓦漏」が出土し、平成10(1998)年から始まった泉南市の
男里遺跡からも、同様の「瓦漏」が多数出土した。特に男里遺跡に含まれる光平寺跡から出土した「瓦漏」には、底部に2文字の刻印が認められ、最初の字は「瓦」と読める。下の字が判読不明であるが、「『漏』という字だったらいいのに・・・」と、岡さんと私。う〜ん、やっぱり判読不明。写真1〜3は、泉南市教育委員会のご協力を得て撮影させていただいた。日本で出土した「瓦漏」を見るのは初めてなので、感激はひとしおだった。