今回の見通しには、これまでにない三つの大きな特徴がある。第一は、化学肥料価格の上昇が農産物価格に与える影響評価を実施したことである。計量経済モデルに基づく将来見通しは、あり得るべき事態を想定することを通じて、食料価格の乱高下を招くような要因については、事前に予測を行い、その予測が「現実とならない」ように未然に対策を講じ、適切な政策的対応を実施するためにも極めて重要である。ただし、世界食料需給見通しに用いた計量経済学的手法は、程度の差はあれ現実社会の単純化であり、単純化によって捨象された部分は予測に反映されず、過去に見られなかった行動パターンは予測され難い
2)といった課題を有している。このため、前提と異なるような不測の事態である突然の農業・貿易政策の変更、異常気象の頻発、戦争の勃発、感染症・動物伝染病などが発生した場合には、予測とは異なる結果が生じることになる。このため、OECD-FAOをはじめとする各機関では、趨勢予測とは別に、不確定な要素を勘案した農業関連政策や社会経済情勢の変化による代替的なシナリオを加えることで、こうした要素が食料需給に与える影響を個別に評価している。OECD-FAOでは、これまでも趨勢予測とは別に2020年に新型コロナウイルス感染症(COVID-19)による経済の低迷による世界の食料需要量に与える影響、2022年にはロシアによるウクライナ侵攻による世界小麦価格への短期的影響評価を行った。
今回のシナリオ分析では、最近の化学肥料価格上昇が世界の農産物需給に与える影響が国際的にも懸念されたことから、化学肥料価格上昇が世界の農産物価格に与える影響評価を新たに実施した。この結果、化学肥料価格の1%上昇により、2032年の農産物価格が平均で、0.2%上昇することが予測された。特に、化学肥料価格が25%上昇することにより、穀物のうち、コメよりも小麦、トウモロコシ、その他の粗粒穀物に比較的大きな影響を与えるとの予測結果となった(図4)。また、肥料を直接投入する農作物は、肥料を間接的に使用する畜産物よりも影響がより大きくなる予測結果となった。そして、砂糖価格に与える影響については穀物、油糧種子などへの影響を下回る予測結果となった。
第二の特徴としては、食料ロス(Food loss)と食料廃棄(Food waste)の発生量を新たに推計・予測したことである。なお、これらはFAOによる定義であり、食料ロスとは、農家、運搬・貯蔵業者、加工・流通業者の段階での食料の廃棄と損失を意味する。また、食料廃棄とは、小売業者、外食産業、家庭における食料の廃棄や損失を意味する。このように、これらのFAOの定義は「本来食べられるにもかかわらず廃棄される食品」を意味する日本の「食品ロス」とは定義が異なる点に注意が必要である。今回の新たな推計・予測により、基準年(2020〜22年)から2032年にかけて、食料ロスの発生量は14%増加、食料廃棄の発生量は30%増加する予測結果となった。同推計・予測は、国連の持続可能な開発目標(SDGs)のターゲット12.3である「2030年までに小売・消費レベルにおける世界全体の一人当たりの食料廃棄を半減させ、生産・サプライチェーンにおける食料ロスを減少させる」目標の実現に向けて、エビデンスに基づいた各国などへの政策提案に資することが期待される。
第三の特徴としては、今回の見通しにおいて、農産物・食品の輸出禁止措置がフードセキュリティ
(注3)に与えるリスクについて明記したことである。2022年には30カ国が農産物・食品の輸出禁止措置を発動し、世界の食料需給における地政学的リスクや農業・貿易政策の変化による「ポリティカル要因(政治的要因)」として、食料価格の上昇のみならず不安定性(ボラティリティ)が増す状況となった。こうした状況を踏まえ、今回の見通しの結果を事前に評価・議論する専門家会合において、当方から農産物・食品の輸出規制措置が世界のフードセキュリティに悪影響を与えるリスクを強く主張し、関係各国の出席者からの強い賛同を得た。この結果、「輸出禁止措置は、食料価格の不確実性にさらなる悪影響を与え、食料価格上昇のみならず、短期的に世界のフードセキュリティに悪影響が及ぶだけでなく、長期的に供給能力が低下する」ことが今回の見通しのエグゼクティブ・サマリーと本文に明記された意義は大きいものと考える。
(注3)国際的に使用されているフードセキュリティの定義は、2009年にFAO「世界食糧サミット」において合意された「すべての人がいかなる時にも、彼らの活動的で健康的な生活を営むために必要な食生活のニーズと嗜好に合致した十分かつ安全で、栄養のある食料を物理的にも社会的にも経済的にも入手可能であるときに達成される」であり、量的充足(Availability)、物理的・経済的入手可能性(Access)、適切な利用(Utilization)、安定性(Stability)の要素から構成されている。フードセキュリティは、世界、地域(地理的区分)、国、地方、自治体、集落、家庭、個人レベルまでを包括しており、日本の「食料安全保障」は国レベルのフードセキュリティと位置付けられる。