(1) 調査対象
本研究では、佐賀大学アグリ創生教育研究センター(附属農場)で飼育している黒毛和種・繁殖雌牛(4齢)を対象とした(写真1)。繁殖雌牛は飼育期間が長期にわたるため(約10年)、さまざまなストレッサーにさらされる。中でも、ストレスによる空胎日数の長期化は繁殖農家にとって大きな問題であることから、ストレス管理に対する需要が高いことが挙げられる。将来的には子牛のストレス判定を視野に入れているが、萌芽的研究として実験の容易な繁殖牛を対象とした。繁殖牛の飼育管理は江原(佐賀大学 家畜行動学:分担)が担当した。本研究では繁殖牛のストレス管理(ストレス状態と平静状態のコントロール)が重要な技術となるが、江原は長年の飼育経験を持ち、飼育管理によって牛のストレスをコントロールする独自のノウハウを有している。
(2) 皮膚ガス成分の捕集
黒毛和種の皮膚ガス成分の化学分析は上野(分析化学:代表)が担当した。皮膚ガス成分は固相吸着材(MonoTrap:RGPS:GLサイエンス,東京)を、穴あきテフロンシャーレに封入して捕集した(写真2)。まず黒毛和種の背部を剃毛し、MonoTrapを封入したテフロンシャーレを背部に密着させ、ベルトを使って固定し、1時間捕集した(写真3)。また畜舎雰囲気試料(操作ブランク)として、同様の操作をアルミトレー上で実施した。捕集後のMonoTrapは、その場で加熱脱着装置用の脱着管に移して真ちゅうキャップを取り付け、氷冷下で速やかに実験室に輸送した。輸送後の試料はマイナス20度で保管し、24時間以内に機器分析に供試した。
(3) パネル選定
GC-O分析は、ヒトの嗅覚で捉えたにおいを言葉で表現する手法である。ヒトの嗅覚は個人差があることから官能評価の嗅ぎ手(パネル)の選定には十分な配慮が必要である。パネルの選定は環境省悪臭防止法に準拠し、5種基準臭(パネル選定用基準臭,第一薬品産業)を嗅ぎわける嗅覚試験に合格した20代の女性2名、30代男性1名(基礎疾患および喫煙歴なし)を採用した(写真4)。なお官能評価に際しては、嗅覚測定法安全管理マニュアルに準じて十分に安全を期した。また、実験に使用する試料は一般生活環境に存在するものであること、実験中も途中退席が可能であること、個人データが特定できるような解析は行わないことをパネルに十分に説明し了解を得た後に、当研究グループの管理の下で実施した。
(4) GC-O分析
皮膚ガス成分の中でも、ヒトの嗅覚でにおい感知できる物質(以下「におい物質」という)の分離・検出にはGC-Oを使用した(写真5)。GC-Oの機器構成は、においかぎ装置(スニッフィングポート OP275:GLサイエンス)を水素炎イオン化検出器付きガスクロマトグラフィー(GC-FID:GC2010 Plus:島津製作所,京都)に装備したものであり、GCカラムの出口側でキャリアガスを分岐し、一方をスニッフィングポートへ、他方をFIDへ接続した。VOCsを捕集したMonoTrapは簡易型加熱脱着装置(HandyTD:TD265:GLサイエンス,東京)を用いて注入した。GCカラムは、DB-5MS(長さ60m,内径0.32mm,膜厚0.5μm:Agilent J&W)、およびInertCap Pure-WAX(以後WAX:長さ60m,内径0.32mm,膜厚0.5μm)を用いた。GCの昇温条件は、45度(5min)→10度min-1→240度(15min)とし、キャリアガスはヘリウムを用いた。検出されたにおい物質の物質同定には、保持指標(RI)を用いたデータベース検索が必要となる。RIの算出に必要な混合アルカン溶液(C6〜C20:GLサイエンス,東京)は、試料分析の直前に分析した。“におい活性”(においを感知した保持時間、自由回答によるにおいの印象および3段階のにおいの強度)は音声認識ソフトウェア(Olfactory Voicegram:GLサイエンス)で記録した。パネルは、事前トレーニングとして標準試料を複数回分析し、良好な再現性が得られたパネル3名(20代の女性パネル2名、男性パネル1名)を採用した。
物質同定には、異なる分離相を持つカラムで得られたRIが二つ以上必要となる。本研究ではDB-5MSカラム(微極性)、およびWAXカラム(強極性)を使用した。皮膚ガスからは多数の類似したにおい活性が感知されるため、そのままの試料を異なる分離相を持つカラムで分析しても、他のにおい活性が重複することで目的のにおい活性を見失ってしまう。そのため、本研究では、後述するGC分取システムを利用し、におい物質を精製・濃縮した分取画分をGC-O(WAX)分析に供試した。
パネルによるGC-O分析は、予備実験と本実験に分けて実施した。予備実験では、黒毛和種から採取した皮膚ガスを対象とし、パネル3名が3回ずつGC-O分析を実施した。得られた全員の結果の中で、三分の二以上の割合で類似のにおいを感知できたものを“可能性のあるにおい活性”として採用した。本試験では、予備試験で訓練されたパネル(30代男性1名)が3回分析した。可能性のあるにおい活性を中心に評価し、得られた結果の中で三分の二以上の割合で感知されたにおい活性を物質同定に供試した。
(5) GC分取・GC-MS分析
におい物質の物質同定には、マススペクトルを得る必要がある。マススペクトルはにおい物質の分子量や分子構造に関する多くの情報が含まれていることから、データベース検索に供試することによって物質を絞り込むことが可能となる。におい物質を含む揮発性の高い有機物質のマススペクトルは、ガスクロマトグラフィー質量分析計(GC-MS)を用いて取得するのが一般的である。一方で、GC-O分析によってヒト嗅覚で感知されたにおい物質は、そのままの濃度でGC-MS分析に供試しても明瞭なマススペクトルを得ることはほぼ不可能である。その理由として、ヒトの嗅覚が物質によっては極めて敏感であることが挙げられる。そこで本研究では、におい物質の同定のため、精製・濃縮を目的とした“GC分取システム”を利用した(写真6)。GC分取システムの概要としては、GC用フラクションコレクター(GC分取装置:VPS-2800,GLサイエンス,東京)をGC-FID(GC2010Plus:島津製作所,京都)に装備したものであり、試料はオートサンプラー付き加熱脱着装置(TurboMatrix650:Perkin Elmer)で注入した。GC-FIDには、DB-5MSカラム(長さ60m,内径0.32mm,膜厚0.5μm: Agilent J&W)を用い、昇温条件は100度(5min)→20度min-1→280度(6min)とした。GC用フラクションコレクターは、トランスファーラインおよび捕集管温度をそれぞれ280度および25度に設定し、カラム溶出物の90%を本装置に導入した。加熱脱着装置は、脱離温度およびトランファーライン温度をいずれも250度に設定した。試料のにおい物質を捕集した5〜50個のMonoTrapを加熱脱着装置を用いて繰り返しGC分取システムに注入(5〜15回注入)し、目的の画分をMonoTrap(RGPS)に分取・濃縮した。本システムで分画・濃縮したものを“分取画分”とした。
GC分取システムで得られた分取画分は、ガスクロマトグラフィー質量分析計(GC-MS:TQ8040:島津製作所,京都)を用いてマススペクトルを取得した。分取画分を捕集したMonoTrapはHandyTDを用いて注入した。GCカラムはGC-Oと同様のWAXカラムを用い、分析条件はGC-Oと同一とした。検出には電子衝撃イオン化法 (EI)によるスキャンモード(m/z 30-300)および化学イオン化法(CI)によるポジティブスキャンモード(m/z 100-300)を用いた。CI試薬ガスにはイソブタンを使用した。GC-Oと保持時間を比較するため、分析前に混合アルカン溶液(C6〜C20)を測定してRIを算出した。
(6) におい物質の同定
2種類の分離相を持つカラムを装備したGC-O分析で得られたRIは、におい物質に特化したデータベースであるAroChemBase(アルファモスジャパン,東京)の検索に供試した。AroChemBaseは、におい物質のRIとにおいの印象が約10万種収録されている。本データベースには一つの化学物質に対して複数種の異なる分離相を持つカラムで計測されたRIが登録されていることから、それらを統合して検索する“クロスサーチ”の利用が可能である。本研究では一つの試料をDB-5MSおよびWAXカラムを用いたGC-Oで分析し、感知したにおい活性のRIをクロスサーチに供試した。
上述の通り、目的としたにおい活性を再びGC分取システム(DB-5MS)で精製・濃縮し、それら分取画分をGC-MS(WAX)を用いたEIおよびCIモードのスキャン分析に供試した。GC-MS(EIスキャン)分析で得られたマススペクトルは、マススペクトルライブラリ(NIST14)を利用して物質を推定した。GC-MS(CIスキャン)分析ではプロトン付加分子[M+H]+が得られるため、分子量を推定することが可能である。EIマススペクトルのライブラリ検索でヒットした候補物質の中から、CIマススペクトルから推定した分子量を用いて絞り込みをかけた。GC-O分析で得られたクロスサーチ結果と、GC-MS分析で得られたマススペクトルライブラリ検索の結果が一致した物質について、標準物質を分析し比較した。標準物質として、3-Octen-2-one(富士フィルム和光純薬,東京)を購入し、GC-O(DB-5MSとWAX)およびGC-MS(WAX)で分析した。RI、マススペクトル、においの印象のすべてが一致したものを同定とした。