(1)コロナ禍の状況
アルゼンチンでは、COVID−19の拡大により2020年3月から約4カ月の長期にわたり、首都であるブエノスアイレスおよびその周辺地域で厳格なロックダウンが実施された。これによる職場への出勤停止やリモートワークが増加したことで人々の消費動向に大きな変化が生じた。乳製品についてはロックダウンが実施された他国と同様に家庭内消費が伸びる一方で、観光や外食からの需要がほぼゼロとなった。
同国政府は、コロナ禍を通じ酪農・乳業を重要な産業と位置付けたため、これらに従事する者はロックダウンに伴う移動制限の対象から除外され、この間も関連産業を含めてほぼ正常に稼働していた。
現地乳業団体によると、生乳生産量が伸びる中で、政策として失業者に対して多額の補助金が投入され、これが乳製品の消費にも結び付いたことで、観光や外食需要の減少分を十分にカバーできたとみている。また、家庭での乳製品需要の増加は牛乳にとどまらず、在宅時間が増えてSNSなどで料理写真を公開することで、チーズやバターの消費増にもつながったとしている。特に地域の消費と密接に結びついている中小の乳業
(注6)にとっては、社会的な不安はあったものの、家庭消費の伸びや乳製品国際相場の上昇に伴う輸出需要などからロックダウン中の経営環境は良好であったとされる。
同年7月のロックダウン解除以降、徐々に経済活動が回復に向かう中で、特に持ち帰りに適したピザの需要の増加からモッツァレラチーズの消費が増え、乳業各社はこの生産を強化した。しかし、一方では物価の上昇から低価格製品への移行も進んでおり、乳業にとっては利幅が薄まる状況が続いている。
(注6)同国には、輸出も手掛ける大手乳業25社で組織するアルゼンチン乳業協会(CIL)とは別に、中小の乳業600社で組織する中小酪農乳業協会(APYMEL)があり、そこでは乳業の規模に応じて以下の通り区分している。
(1)零細企業(Micro Pymel):320社
1日当たりの生乳処理量が5000リットル以下であり、国内各地に分布。牛のみならずヤギ、羊、水牛の生乳も取り扱う。基本は家族経営であり、その土地に 密着した経営(市町村単位での流通のみ)を行っている。ただし、経済情勢が悪化すればすぐに経営危機に陥るなど、脆弱な経営基盤である。
(2)小規模経営(Pequeña Empresa):180社
1日当たりの生乳処理量が2万5000リットル以下であり、主要酪農州に集中。手作業でチーズなどの製品を製造。このため、州政府やAPYMELは、作業効率を高めるための技術支援や機械導入を支援。
(3)中規模企業(Mediana):100社
主要生産州に集中し、機械化による乳製品の製造が行われている。製造される乳製品は輸出に対応できる品質を十分に満たしており、現在30社が輸出を行っている(同国の乳製品輸出量全体の10%前後)。
(2)インフレ圧力の増大
2019年の大統領選挙で誕生した左派のフェルナンデス政権は、前政権による緊縮政策から一転し、かつての大衆迎合政策に戻したことで財政は悪化に転じた。また、コロナ禍で景気がより下振れしたこともあり、金融市場では米ドルに対する自国通貨のペソ安が続くなど急速なインフレが進んでいる。首都ブエノスアイレスでは連日のように政府に対し物価上昇対策の実施を訴える抗議デモが行われており、現地関係者からは、度重なる経済危機に見舞われた同国でも22年の今の経済状態が最悪との声も聞こえるほどの状況下にある。特に為替に関して同国には、米ドルに対するペソの交換レートとして、公式相場と実態を反映したブルーレートと呼ばれる非公式相場が存在するが、前政権下で是正されたこれらの差は、コロナ禍を通じ大きく広がっている(図8)。輸出を手掛ける乳業にとっては、輸出で得られる外貨のすべてを国内に送金し公式相場に準じて政府が定める相場で交換することが求められるため、これにより、実態に即して得られるべき利益の相当分が失われる結果となっている。
ブエノスアイレスの小売店や飲食店では、度重なる価格の引き上げに価格表の修正が追い付かない様子も見られ、全国的に食料品を中心に物価が上昇している。一方で政府は、乳製品を基礎的な食料品の一つと定め、小売価格の据え置きを決定した。このため、表立った乳製品価格の上昇は見られないものの、コストの上昇分を乳業が負担する状況が続いている。
酪農家に対しては、賃金や電力・燃料などの上昇が続く中で、生産者乳価の度重なる引き上げも行われており、22年5月時点では1リットル当たり45.52ペソ(43円)と、この5年間で乳価は9.3倍に上昇した(図9)。しかし、インフレ率の上昇には追いついておらず、インフレ率を考慮した同期間の生産者乳価の伸びは1.2倍程度にとどまっている。
現地関係者は、生産者乳価が上昇してもインフレ率の上昇が上回っていることから、22年の同乳価は20年比で2.6%安、酪農家の収益は1.6%減と見込んでいる。
(3)輸出環境の改善
米国や豪州で開催されている農業アウトルック会議では、当該年や翌年の生産見通しなどの報告が通例として行われるが、今回、アルゼンチンで行われた酪農アウトルック会議では、このような生乳生産見通しの報告は行われなかった。これについて同会議の主催者であるアルゼンチン乳業振興開発財団(FunPEL)
(注7)は、主に輸出環境の改善が見込めない限り、将来的な予測を出せるような状況にはないとし、不確かな数字を出すことは市場の混乱を招くことになると述べている。
同会議では、アルゼンチン国内の乳製品消費は今後、一定の伸びが期待できるとの報告が行われたものの、必ずしも過去の消費水準を上回るものではなかった。このため、同国の生乳生産量を伸ばすためには“新たな市場の開拓=輸出の拡大”が必要との見方が、すべての乳業関係者の一致した意見となっている。
ただし、輸出拡大に取り組むためには、輸出環境の改善が必要であり、具体的には他国との貿易交渉の進展が求められている。同会議の場で報告された一例では、韓国向けチーズ輸出では、アルゼンチンからの輸出に35%の輸入関税が課せられるが、韓国との間で自由貿易協定を締結しているNZや豪州は輸入関税がゼロとしている。このため、現地乳業関係者からは、世界各国で自由貿易協定の締結が進展する中で、とても太刀打ちできない状況との声が聞かれた。現状では、アルゼンチンの主な乳製品輸出先は、南米南部共同市場(メルコスール)に加盟するブラジルなど南米諸国が主体となっている。同会議の中でも、多くの講演者から貿易交渉の進展がアルゼンチンの生乳生産量を伸ばす鍵と報告されるなど、酪農・乳業関係者にとって切実な願いとなっている。
(注7)生産者と乳業者で構成され、独立した第三者機関であるアルゼンチン乳業チェーン観測所(OCLA)からの委託を受け、多方面から情報を収集し、独自の分析を加え、生乳生産量や消費量、輸出量などの統計情報や需給報告、地域・経営ごとの生産コストモデルなどを公表している。