西尾氏はファームスクール修了生唯一の新規酪農就農者となった。以下、その経緯などについて紹介する。
(1)ファームスクールへの入学動機
東京都出身で御両親は農業とは無関係であったが、動物が好きで、大学時代は「馬術部」に所属していた。卒業後、3年間企業勤めをしたが、都会から離れて大好きな馬と暮らしたい気持ちが強まった。都内の北海道のアンテナショップでファームスクールを紹介してもらい、新得町管内には馬術部の先輩もいて、なじみがあったことから、26歳で入校した。
(2)研修で楽しかった点や苦労した点
大学時代は「馬」の世話をしていたので、「牛」の世話は苦ではなく、体を動かすことも楽しんでこられた。また、平成9年度の研修生は10人以上と多く、施設での共同生活で親しくなった研修生と楽しみや悩みを共有できたこともファームスクールのメリットとして挙げ、単独で飛び込みで農業実習を行っていたら、続けることは難しかっただろうと西尾氏は言う。共同生活で行われるファームスクールの研修は当時、画期的なシステムであったと述懐された。
西尾氏は、研修先4カ所の酪農家の経営スタイルがそれぞれ全く異なっていること(つなぎ飼育やフリーストールなど)に驚いたそうで、搾乳作業などにおける自身の「不器用さ」を痛感された。機械操作のほか、頭で理解していても体がうまく動かないことに大変苦慮されたとのことである。
これらの苦労を経験する中で、当時の研修先の酪農家の人たちは冷静に研修生の仕事ぶりを評価しており、不器用でも一生懸命頑張っていると助けてくれたとのこと。この経験を通じ、一生懸命作業に取り組むことが大事であると西尾氏は痛感した、と述べていた。
(3)新得町で「新規酪農就農」に至った理由
研修先の酪農家(男性の経営者)の人たちがとても楽しそうに仕事をしている姿を見て、酪農家の仕事の奥深さや面白さを実感し、酪農家の「配偶者」になるという選択肢よりも、研修経験を生かして「経営者」になりたいと考えるようになったとのこと。
研修当初は、研修生仲間も同様に受け止め、酪農に携わろうという「夢」を持っていたが、結婚や就職などにより、最終的には、新規酪農就農という「夢」を目指したのは西尾氏1人となった。
ファームスクールでの研修修了後、西尾氏は、すぐにでも新規酪農就農したいという思いはあったと述べる。しかし、資金面の問題に加えて、経験が浅かったことなどから、法人経営や個人経営の酪農家など、さまざまな酪農経営スタイルで働くことで着実に業務経験を積むこととなった。
一方で、就農のチャンスを虎視眈々とうかがい、ファームスクールでの研修修了後の実習先の酪農家(新得町管内)には「自分は今後酪農家になりたいので、引退する際は経営を譲ってもらえないか」と西尾氏は伝えていた。しかしながら、実習先の酪農家は、単身の女性が新規酪農就農することは難しいと考え、経営自体は第三者継承で西尾氏以外に譲ってしまった。それでも、その酪農家は、西尾氏からの相談を受け、管内で酪農を行える土地として、旧酪農家の土地を紹介した。その土地が、現在の西尾氏が酪農経営を行う場所となっている。
(4)新規就農とその後の苦労
上述の酪農家の仲介により土地を取得した後、町役場や農協に「酪農経営」の申請を行った。しかし、新規酪農就農は初期投資が多額となる。このため、土地代、牛舎建設費や搾乳機器購入費などを含む費用については、(1)新得町の「新規就農支援資金」(2)北海道(担い手支援センター)の「就農支援資金」(3)両親からの借り入れ−で賄った。また、同町から初妊牛10頭の無償貸与を受けた。当時(20年前)の状況では金融機関からの与信を受けることが難しく、その後の乳牛の導入については、新得町農協の立替払いで行い、少しずつ返済することとなった。
経営がある程度軌道に乗るまでは、土地の管理などに苦労された。例えば、雪解け後に敷地内の道が大変ぬかるんでしまい、タンクローリーが入って来られなくなったことや、2〜3月にかけて、冬の渇水で井戸水の水位が下がってしまい、牛の飲み水を確保できなくなってしまったこともあった。また、牧場から牛が脱走してしまったことや、隣の家の花火の音で牛が驚いて暴れたこともあった。生乳廃棄の場所が不適切であったことから、その場所にヒグマが出没したこともあった。その他にも牛の出産やパドックの整備などが当初はうまくいかないなど、毎日がトラブルの連続であった。しかし、隣の元酪農家の方などが助けてくれて何とかトラブルをしのぐことができた、と西尾氏は述懐する。
(5)牧場の概況
現在、ホルスタイン種30頭、ジャージー種8頭の計38頭を飼養しており、うち経産牛は25頭(表8)。極力、牛ができることは牛にしてもらうという方針から放牧酪農を実施している。放牧は、放牧地を三つに区分して実施しており、放牧地への出入りを促すことはせず、牛が時間通りに牛舎に帰ってくるように仕向けている。牛舎はフリーアクセスで自由に出入りできるようにし、水飲み場も牛舎にしかない。
一度に分娩を集中させると哺乳が大変なので季節繁殖は行っていないが、厳寒期の分娩を避けるため、12月から2月には極力分娩させないようにし、出産は直前まで見守っている。飼料(完全混合飼料)も時間通りに給与せず、残った飼料を牛が食べ切るまで給与しないことで、残滓を発生させないようにしている。
このような管理を実現するため、牛を「自由」にしているものの、「放任」はせず、1頭ごとの観察を欠かさない。特に搾乳時は牛のちょっとした変化も見逃さないようにしている、とのことである。
育成牛は5〜6カ月まで飼養し、その後は預託している。離乳後(3カ月後)は、(屋根のない)パドックに出して土に慣れさせ、足腰を鍛えさせている。
地域内の酪農家とは機械などの貸し借りをしたり、地元の公共施設の清掃などを一緒に行ったりしている。
燃料や資材費高騰に対する国の補助は受けているが、酪農関係の補助事業は今のところ利用していないとのことである。