(1)水際対策とASF発生後の感染拡大防止策
中国でASFの発生が確認されて以降、フィリピン政府はASFタスク・フォースを設立し、農務省畜産局を中心にASFウイルスの侵入および蔓延予防の水際対策を講じてきた。水際対策は五つの対策から成り立っており、それぞれの頭文字をとって「BABES」と称されている(表2)。
また、国内でASFの発生が確認された場合、迅速な対応と蔓延防止を可能とするための防疫指針が策定された。ASFに関する防疫指針は非常事態対処計画書に示されており、同計画書には、先に挙げたBABESによる予防措置のほか、感染封じ込め、撲滅計画、復興支援策、担当行政の役割などがまとめられている(表3)。
このうち、業界支援プランでは、以下のように同国政府が地方自治体と協力し、被害を受けた生産者に対する補償とASF撲滅の取り組みに必要な資金提供を行うことが定められている。
・農務省:殺処分された家畜の補償資金の提供(1頭当たり5000ペソ(1万3700円))
・家畜疾病局:疾病発生時および撲滅取り組み時の事業運営費を提供
・財務省および環境天然資源省などその他の関係省:各省で緊急時に利用できる資金の提供
・地方自治体:上述の事業運営費または補償資金のどちらかへの資金提供
上述の通り業界全体であらゆる水際対策を講じていたが、2019年7月25日、マニラ首都圏に隣接するリサール州の小規模農家(庭先養豚)で第1例目となるASFの発生が確認された(図3参照)。ASFウイルスに汚染された輸入豚肉製品が発生源であった可能性が高いとされている。ASFの発生を受けてフィリピン政府は、非常事態計画書に沿ったゾーニングエリアを設定し、1−7−10プロトコルと呼ばれる蔓延防止対策を講じた(図6、表4)。ゾーニングエリアは三つに区分され、1キロメートル圏内は感染地域、7キロメートル圏内は隔離地域、10キロメートル圏内は監視地域とし、感染地域内の豚の殺処分や消毒実施のほか、周辺地域の豚の移動を制限した。
しかし、(1)感染地域で豚の殺処分漏れがあったこと(2)生産者が豚の引き渡しを拒んだこと(3)未報告の症例があったこと−などから隣州のブラカン州にも感染が拡大し、同年10月までに2万頭以上の豚が殺処分された。同国では、個人によると畜や、病気症状が見られる豚のと畜が一般的に行われており、親戚や隣人にこれらの豚が売り渡される。また、庭先養豚で病気になった豚は、集荷業者が安く買い取って近隣地域の買付業者に売り渡すこともあり、このような従来からの慣例や対策の徹底の甘さが感染拡大につながったとみられている。ASFの発生が拡大する中で、同国政府はさらに踏み込んだ対策を講じるため、発生州のロックダウン(都市封鎖)を行うとともに、ASF発生地域では、養豚従事者が生体豚の売買や輸送、ASF感染豚のと畜・販売を行った場合は、逮捕および起訴することを発表した。さらに同国政府は、自治体ごとの感染情報を発信するため、同年12月には自治体別の感染状況評価の導入を発表した(表5、図7)。この評価では、ASF発生状況によって各自治体を5段階レベルに評価し、生体および豚肉加工製品の移動を各自治体の評価レベルによって制限した。ASF未発生地域は、同国全土に制限なく生体豚および豚肉製品を販売・輸送できるものの、感染地域と評価された自治体は、自治体内およびマニラ首都圏のみに販売・輸送が制限された。しかし、図7の通り北部のルソン島から南部のミンダナオ島まで感染ゾーン(赤色)は拡大した。フィリピン農務省によると、19年7月に第1症例が確認されて以降、これまでに81州のうち67州でASFの発生が確認されており、23年6月末時点では、16州58地区で感染が確認されている。
(2)水際対策および蔓延防止措置に対する業界団体の反応
国内の養豚団体や獣医協会からは、ASFウイルスの侵入および蔓延を防止できなかった主な要因として対策の徹底の甘さ、人手不足、政府の予算不足であったという意見が多い。また、前述のBABESや非常事態対処計画書は策定されていたものの、空港や港湾などでの水際対策(動物検疫および密輸摘発に必要な十分な人員や探知犬の配置)が徹底されていなかったことも一因とされる。さらに、国内でASFの発生が確認された際にゾーニングエリア(1-7-10プロトコル)が設置されたが、豚や豚肉関連製品の移動を監視する検疫チェックポイントや人員が足りず、検疫をすり抜けてこれらの製品を移動させることも可能であった。このような政府予算の不足から生じたさまざまな事態は、生産者による感染豚の引き渡しの拒否やASF発生の未報告、感染した豚肉の流通にもつながった。養豚団体によれば、ASFで被害を受けた生産者には、当初1頭当たり3000ペソ(8220円)の補償額が支給されたが、当時1頭当たりの飼養コストが1万ペソ(2万7400円)であったため、補償額を受け取るよりも市場で販売するほうが利益を得られたとされる。また、前述の通り病気の豚を買い取る業者も存在するため、飼養する豚がASFに感染しても庭先養豚を行うほとんどの農家は買取先を見つけることに困らなかったとみられる。そのほか、地方の蔓延防止措置も市町村によって対策資金や人手に差が生じ、全国で同一水準の対策を講じることが難しいという声もあった。
(3)ASF発生の影響
ア 豚飼養頭数および豚肉生産量
フィリピンの豚飼養頭数は、2019年7月のASF発生以降、大きく落ち込み、23年7月時点の飼養頭数は1007万4000頭(19年7月比20.7%減)と大幅に減少している(図8)。飼養頭数の内訳を見ると、小規模農場では680万1900頭(同15.6%減)とかなり大きく減少し、準商業養豚施設は32万6600頭(同3.2%減)とやや減少、商業養豚施設は294万5000頭(同29.2%減)と大幅に減少している。特に商業養豚施設での減少率は大きく、同国でASF封じ込めの見通しが立っていないことや有効なワクチンや治療法がないことから、飼養頭数の回復に慎重な養豚業者が多いことがうかがえる。また、飼養頭数の減少に連動して豚肉生産量も減少傾向にあり、23年4〜6月の豚肉生産量(生体重量(注4))は42万2700トン(19年同期比27.1%減)と大幅に減少しており、年推移でもASF発生以降に大きく落ち込んでいることが見て取れる(図9、10)。
(注4)フィリピンでは、枝肉重量に基づいた豚肉生産量は集計されていないとみられる。
イ 小売価格
豚肉生産量の大幅な減少に伴い、小売価格も上昇を続けており、2021年の豚肉平均小売価格は1キログラム当たり288ペソ(789円、前年比14.3%高)と前年の平均価格である252ペソ(690円)からかなり大きく上昇した(図11)。また、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の拡大を防止するため、フィリピンでも厳しい感染拡大防止措置が講じられ、国レベルや州レベルで感染状況に応じたロックダウンが断続的に行われた。特にマニラ首都圏に講じられた厳しいロックダウンは、ヒトやモノの移動に制限が課され、物流の遅れや食品販売に大きな影響を与えた。農村都市間の農産物の移動はフィリピン農務省によって許可が与えられていたものの、地元警察が設けた主要道路のチェックポイントでは、移動許可証の確認や車両チェックなどに時間がかかり物流の遅れが発生したことも価格高騰の一因となった。
同国では、緊急事態や災害時もしくは人為的な要因によって不合理に生活必需品や主要な物品の価格上昇が引き起こされるような事態に陥った場合、小売価格のさらなる高騰を防ぐことを目的として、関係機関もしくは価格調整協議会の勧告に基づき、大統領が生活必需品や主要な物品の上限価格を定めることができるとされている。21年2月、同国政府は大統領令124号を発出し、肩ロースおよびモモについては、1キログラム当たり270ペソ(740円)、バラについては同300ペソ(822円)の上限価格を60日間にわたって設定した。
上限価格の設定は同年4月8日に解除されたものの、継続した市場価格の安定を図ることを目的として、同年4月9日以降はフィリピン農務省が省令として推奨小売価格を設けている。推奨小売価格は、肩ロースおよびモモが同270ペソ(740円)、バラが同350ペソ(959円)に設定されたが、自由市場経済の中、その実効性に疑問の声が投げかけられている。
その後、輸入豚肉が増えたことなどから、小売価格は同年10月に一時的に下落したものの、クリスマス需要を控えた年末に向かうにつれて再び値上がりした。また、現地報道によるとCOVID-19の拡大に伴う所得減少や物価上昇が消費者の購買意欲を低下させたが、ASFによる豚肉の供給不足は継続しているため、23年6月時点のマニラ近郊の肩ロース価格は、同326ペソ(893円)と依然として高止まりしている。
また、豚肉小売価格の高騰を受けて、安価な鶏肉の購入に切り替える消費者が増加したことから鶏肉の需要も増加した。しかし、飼料価格の高騰やCOVID-19拡大による外食産業の需要低迷などから鶏肉業界は生産量を制限していたため、鶏肉小売価格も急上昇したことで、同国政府は鶏肉に対しても同160ペソ(438円)とする上限価格を設定した。
ウ 豚肉輸入量
フィリピンでは、これまでの主な豚肉輸入品は輸入枠(ミニマム・アクセス数量)が設定されてない内臓品が中心であったが、2021年以降はASF発生に伴い国内生産が落ち込んだことで豚肉、内臓および副産物の輸入量が急増している(図12)。部分肉については、12〜20年は、毎年4〜6万トン程度輸入されていたが、21年は21万5600トン(前年比279%増)と大幅に増加し、さらに22年には31万4800トン(同46.0%増)に増加した。
同国では、国内の養豚産業を保護する目的で、輸入豚肉にはミニマム・アクセス数量が設定されているほか、高い関税率を設けている。しかしながら、国内の供給不足の深刻化に対応するため、21年に大統領令第128号、133号および134号を発令し、一時的に輸入枠の引き上げと輸入関税率の引き下げを行った(注5)(表6)。同年4月に発令された大統領令128号では、輸入関税率が大幅に引き下げられたが、国内の養豚団体などから、安価な輸入豚肉が市場に出回れば、ASFですでに打撃を受けている国内の豚肉生産は立ち直れない、と批判が集まった。そのため、政府は関税率の見直しを行い、同年5月には大統領令第134号を発令し、輸入関税率を改訂した。関税率の引き下げは23年12月まで維持され、税率は四半期ごとに見直されるとしている。また、ミニマム・アクセス数量は大統領令133号で5万4000トンから25万4210トンに引き上げられた。主要輸入先はカナダ、米国、フランスであり、21年以降はブラジルや英国、スペインからの輸入量も増加した(図13)。