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話題 畜産の情報 2024年9月号

国内で利用され始めているスリック牛について 〜遺伝改良から考える酪農の暑熱対策〜

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株式会社野澤組 畜産部 粂 咲良

1 はじめに

 昨年(2023年)の夏は、平均気温偏差が過去最高を大きく上回り、圧倒的な暑さを記録したことは皆さんも印象深かったのではないでしょうか。北海道内でも生乳生産量の急減や暑さによる乳牛の死亡事故が多発し、大きな被害をもたらしました。乳牛は、湿度が90%を上回る場合は気温22度でも暑熱ストレスを感じ、飼料摂取量の低下や乳量の減少、繁殖トラブルを引き起こします。米国における暑熱ストレスによる経済的損失は、推定で年間12億ドル(約1841億円:1米ドル=153.44円(注1))とも言われています。
 今後ますます暑さが厳しくなると予想され、さらなる暑熱対策の強化が求められています。さまざまな対策の中で、今回は注目が高まっている遺伝子による暑熱対策の方法をご紹介します。
 
(注1)三菱UFJリサーチ&コンサルティング株式会社「月末・月中平均の為替相場」の2024年7月末TTS相場。

2 暑さに強い遺伝子の発見

 “暑さに強い遺伝子の利用”と聞くと、遺伝子組み換えなどを想像される方もいらっしゃるかと思いますが、今回ご紹介するものはそれとは異なります。暑さの厳しい地域に生存する特定の品種とホルスタイン種との計画的な交配によって“暑さに強い”という特長をホルスタイン種に導入する方法です。この暑さに強い遺伝子は「スリック遺伝子」と呼ばれています。
 スリック(SLICK)とは、英語で「滑らかで光沢がある」ことを意味し、牛の被毛を薄く短く変化させる遺伝子です。夏場の暑熱対策として牛の毛刈りを行い、熱を体から放散する手助けを行う手法がよく用いられますが、毛刈りをせずとも生まれつきその特長を備えることができるのです。
 スリック遺伝子は、カリブ海に浮かぶ米国領ヴァージン諸島のセントクロイ島原産である、セネポル種から発見されました。現地調査によってセネポル種の中でも短毛の個体は夏場の乳量低下が通常のセネポル種よりも少ないことが分かり、その後、フロリダ大学を中心とした研究グループによってホルスタイン種にスリック遺伝子を導入するための計画的な交配が行われました。
 現在、スリック遺伝子をもつホルスタイン種雄牛の凍結精液が米国やカナダなどの家畜人工授精所で生産されています。すでに日本にも輸入されており、国内でもスリック遺伝子を持つ牛が生まれています。最初に利用可能となったスリック種雄牛(スリック遺伝子をもつホルスタイン種雄牛)はスリック ゲーター ブランコとスリック ゲーター ローン レンジャー(写真1)という名号の2頭です。現在流通しているスリック種雄牛の血統をさかのぼると、ほとんどがスリック ゲーター ローン レンジャーにたどり着きます。前述の通り短毛が特長ですが、スリック種雄牛と通常のホルスタイン種雄牛の被毛には明確な差が見られます(写真2)。



3 フロリダ大学で行われた研究結果

 ここからは、スリック遺伝子に関わる研究の一つとして、米国のフロリダ大学の研究結果をご紹介します。以下より、通常のホルスタイン雌牛を通常牛、スリック種雄牛から生まれた被毛が短い雌牛をスリック牛として表記します。
 図1では、夏季(5〜7月)、冬季(10〜12月)それぞれに分娩した通常牛とスリック牛の分娩後90日間の乳量を示しています。夏季に分娩した通常牛は、冬季分娩に比べて乳量の差が平均3.7キログラム落ち込んだのに対して、スリック牛は同1.3キログラムと、夏場の乳量低下が少ない結果が得られました。
 さらに同研究では、発汗量や直腸温度、呼吸数の計測も実施され、スリック牛は通常牛よりも発汗量が多く、効率的に体から放熱出来ることが明らかになりました。通常牛の直腸温度の平均値は40.5度であったのに対し、スリック牛は39.6度、また1分間の呼吸数は通常牛において平均107回、スリック牛は同93回でした。牛は暑さを感じると呼吸数やよだれの量を増やし体の熱を放散させようとしますが、スリック牛は発汗による放熱量が多いため、通常牛よりも呼吸数が少なくても体温を低く保つことが出来るためと同研究では考えています。


 
 なお、米国フロリダ州は温暖湿潤気候に当てはまり、前述のフロリダ大学で実施された試験は最高気温30度、湿度70〜95%の環境で行われています。また、気温と湿度から暑熱ストレスを数値化し、牛の不快指数ともいわれる温湿度指数(THI:Temperature-humidity-index)は、一般的に68を超え始めると乳量の減少が認められるとされていますが、同試験環境では74〜81程度でした。
 同研究は日本のジメジメとした夏場に近い環境で行われていることから、今後、日本国内でも同様の効果を得られることが期待されます。

4 スリック遺伝子利用時の注意点

 スリック遺伝子があるからといって、やはり飼養環境を軽視することはできません。送風機やミストなど暑熱対策のための設備は非常に重要です。しかし、厚い被毛で覆われた牛にミストを散布した場合、被毛の上に水滴の膜ができ、体から出てくる熱を閉じ込めて熱放散を妨げることもあるため、逆効果となることがあります。一方で、スリック牛のように被毛が薄く短ければ水滴は被毛だけでなく直接皮膚をぬらし、さらに風を当てることで気化熱により体を効率よく冷やします。人間に置き換えても、霧吹きで首元をぬらしてから扇風機に当たるととても涼しく感じるのと同じ原理で、地肌をぬらすことが暑熱対策の効果を引き上げます。スリック遺伝子が送風機やミストなど既存の牛舎設備の効果をさらに引き上げることは間違いないでしょう。
 次にスリック遺伝子を導入するに当たり、一定の泌乳能力の低下が伴う可能性があります。これまで何十年にもわたって、ホルスタインは生産性向上のための遺伝改良が行われてきました。セネポル種と交配を行ったことにより、初期のスリック種雄牛は泌乳能力や体型の改良効果を一次的に失いましたが、北米の家畜人工授精所やわれわれ凍結精液の販売業者は、この遺伝的後退がスリック遺伝子による夏場の乳量増加のメリットを打ち消してしまわないよう、遺伝的な泌乳能力や体型などがさらに改良されたスリック種雄牛の提供に尽力しています。現在では、通常のホルスタイン牛の泌乳能力や体型等に劣らないスリック種雄牛も流通しており、近年ではより気軽に利用可能な遺伝子へ変化しています。

5 スリック遺伝子の遺伝の仕組み

スリック遺伝子は優性(顕性けんせい)の単一遺伝子であり、比較的簡単に遺伝子を牛群に導入することが可能です。現在生産されているスリック種雄牛のほとんどがヘテロ接合(注2)のため、これまで一度もスリック種雄牛を使ったことのない牛群では、産子は50%の確立で短毛になります(図2)。仮にホモ接合(注2)のスリック種雄牛を使用した場合には100%の確立で子牛は短毛となりますが、遺伝的な改良の観点からホモ接合のスリック種雄牛の利用が可能となるまではもう少し時間がかかりそうです。
 
(注2)ヒトをはじめ、多くの生物は、ある形質(性質)を決める遺伝子を二つ持っています。同じ対立遺伝子を持つものをホモ接合体、違う対立遺伝子を持つものをヘテロ接合体といいます。ヒトのABO式血液型ではAA、BBおよび OOの遺伝子型がホモ接合であり、AO、BOおよびABの遺伝子型がヘテロ接合です。またAおよびB遺伝子は優性(顕性)遺伝子、O遺伝子は劣性(潜性せんせい)遺伝子となります。

6 国内におけるスリック遺伝子の利用状況

 スリック遺伝子を活用した暑熱対策にいち早く取り組んでいる牧場が、愛知県の渥美あつみ半島にある渡辺牧場です。渡辺牧場では、2023年8月に中部エリアで初めてとなるスリック子牛が誕生しました(写真3)。スリック子牛(左)と通常の子牛(右)と比較すると明らかに尻尾の毛が短く薄いことがお分かりいただけるかと思います(写真4)。




 
 経営者の渡辺賢司氏からは、「日本国内でスリック遺伝子の効果が判明するのを待ってからスリック種雄牛を使い始めた場合、自分の牧場で暑熱対策の効果が得られるまでさらに3年以上も待つことになる(人工授精⇒スリック牛の誕生⇒乳生産開始までに合計3年かかるため)。ここ渥美半島の夏場の暑さ問題は非常に深刻なので、試験的にでも早く取り掛かりたいと思いスリック種雄牛を利用し始めた。来年の春ごろにはスリック牛の分娩が始まる予定なので、実際の夏場の乳量や、直検した際の直腸温度が本当に低いのかなど、自分の牧場で確認できるのが楽しみ。」とコメントを頂きました。

7 おわりに

 日本国内でのスリック種雄牛の凍結精液の販売は2021年ごろより開始され、日本各地でスリック牛が生まれていますが、泌乳を開始した牛はまだ多くありません。今年度、あるいは来年度中にはスリック牛の日本国内での泌乳成績も徐々に判明すると思いますので、研究機関などからの報告をわれわれも楽しみにしています。
 なお、スリック牛は北海道内でも生まれており、北海道の環境下では冬季は冬毛が生えたことが確認されています。発育や健康状態も問題がなかったことが分かっているため、東北地域や北海道などの冬場の寒さが厳しい地域の方も、スリック遺伝子を利用した暑熱対策に安心して取り組んで頂ければと思います。
 
 
【プロフィール】
粂 咲良(くめ さくら)
1995年5月生まれ 愛知県岡崎市出身
2019年帯広畜産大学卒業、同年(株)野澤組に入社し現在に至る。
 
【参考文献】
The SLICK hair locus derived from Senepol cattle confers
thermotolerance to intensively managed lactating Holstein cows - Dikmen et al. J Dairy Sci. 97:5508(2014)