(1)会社員から農家へ
「自分で食べ物を作れる能力を身につけたい」そう思ったのが要秀人氏(以下「要氏」という)が、農家になったきっかけであった(写真1)。要氏の祖父母は沖永良部島出身である。自身は今まで沖永良部島に住んだことはなかったが、高校生の時に初めて訪れた際に自然の豊かさや島の空気に触れ、いつか住んでみたいとそのころから思っていた。社会人となって、大阪で会社員として働いていた要氏であったが、東日本大震災をきっかけに都会のシステムの脆弱性に危機感を覚え、自ら食べ物を作る生き方がしたいと思い、農家への転身を決断した。
会社を退職する際に、離島で農業を始めると同僚に話したところ「それは無理だろう。」と否定的な反応をされたそうだ。確かに、覚悟はしていたが、今まで農業にほとんど触れたこともない人生であったため、どれだけ大変なのかが分かっていなかったのも事実であった。そのため、移住後のことを想定して、まず地域のコミュニティにどのようにしたら受け入れてもらえるのかを考え、行動に移したとのことである。例えば、移住前にSNS(ソーシャルネットワーキングサービス) で島民とつながり、行事の親睦会に参加するなど関係づくりを行った。そして、島民に顔と名前を覚えてもらう決定打となったのは、島の一大イベントである「花の島沖えらぶジョギング大会」に夫婦そろって参加したことであった。同大会は令和5年の開催で第40回を迎えた歴史あるハーフマラソンの大会である。当時の大会にて、要氏がタキシード、妻の笑子さんがウエディングドレスを着て完走し、そのまま島の役場に婚姻届を提出しに行った(写真2)。その様子は地元の新聞やテレビでも取り上げられ、一躍島の有名人となり、地域に受け入れられたのであった。
平成27年11月に移住した要氏は、まずは農業を学ぶため、知り合いの農家のもとでアルバイトを始めた。取り扱っていたのはキクの花、サツマイモ、タマネギ、ユリの球根、バレイショなどである。少しずつ農業の知識を付けていき、地域の一員として徐々に認めてもらえてきたと感じ始めたころ、肉用牛繁殖経営を営んでいる父を持つ知人から牛の世話を手伝ってほしいとの相談を受けた。知人の父親が体調を崩して入院してしまい、知人も畜産業の経験はなく困っていたことから、人助けだと思い牛の管理を引き受けたことで、要氏の畜産農家としての人生が始まった。牛の飼養管理はもとより畜産業の知識も経験もない中、いきなり母牛20頭、子牛15頭の世話をしなければならなくなった。頼れるのは知人の獣医師や、体調が回復した短い期間だけ自宅にいる知人の父親だけという状況下で、足りない知識と経験を補うため、参考になりそうな畜産関係の本を読みあさって知識を習得していった。要氏は「預かっている牛なので死なせたら大変だと思い、とにかく必死でがむしゃらな毎日であったが、次第に命を扱う畜産の仕事にやりがいを感じるようなり、気付けば畜産農家になる決意をした」と言う。
(2)要ファームの設立
肉用牛繁殖経営を生業とすることを決意した要氏は、まずは自身の牛を購入したいと考えていた。その頃、SNSでつながっていた農家から離農するという話があり、母牛9頭を購入することができた。しばらくの間は知人の牛舎を間借りして、預かっている牛とともに育てていたが、移住してから6年9カ月後の令和4年8月に自身の牛舎も完成し、要ファームを設立した(写真3)。
牛舎の面積は300平方メートルであり、母牛20頭が収容できる。与える飼料の量によって部屋を分けており、出産が近い牛を入れる部屋には分娩カメラを設置して24時間様子が見られるようになっている。また、飼養管理ができる専用のスマートフォンアプリを利用しており、アプリと同一メーカーの発情発見機と連動させることで、牛の首に装着したセンサーが反芻の時間や牛の動きなどを検知して、人工知能(AI)が解析した個体ごとの活動データがアプリに通知が届くため、遠隔地にいても牛の発情を把握することができる(写真4)。
当初9頭であった母牛は、現在は14頭にまで増えたが、牛舎の最大収容可能頭数である20頭にまで増頭するのが当面の目標という。母牛は年1産、生涯で10産の長命連産を目指しており、子牛は8〜9カ月育てて出荷するが、現状の悩みは子牛価格の低迷だと話す。新型コロナウイルス感染症が落ち着いてきたかと思えば、近年は、ウクライナ情勢や円安などの影響で飼料費が高騰しているため、肥育農家が子牛を買い控える動きがあると言う。要氏は、「今のままでは子牛を出荷してもほとんど利益は出ない」と肩を落としている。
出荷先である沖永良部家畜市場では隔月でセリが開催されているが、令和3年5月以降、和子牛の取引価格は下落傾向にあり、6年5月時点では平均取引価格が約49万円となっている(図4)。
こうした厳しい状況のなか、要氏は少しでも生産コストを抑えるため、牧草のローズグラスを自身で栽培している。農地は約4万平方メートルを知人から借用しているのに加え、夏季には知人の農家からバレイショ収穫後の畑を期間限定で借用している。それでも、作柄によって必要な牧草のすべてを補えない年もあり、冬季に不足分の粗飼料を購入することもある。
(3)キクラゲ飼料の共同開発
繁殖供用を終えた母牛の販売も繁殖農家の大切な収入源の一つであるが、離島では飼料の輸送コストがかさむため、肥育に適した環境とは言い難い。しかし、要氏は離島で肥育が難しいということに疑問を持っていた。石垣島に石垣牛があるように、沖永良部島でも独自のブランド牛を作りたい。離島であっても島内で飼料を賄える環境が整えられないだろうか。そう考えていたころ、島内で開催された農業関係の勉強会で知り合った東北大学の関係者から、エコフィードを研究開発しているリファインホールディングス株式会社(以下「リファインHD」という)を紹介された。同社の担当者と島内の未利用資源を洗い出していたところ、キクラゲを生産販売している沖永良部きのこ株式会社(以下「沖永良部きのこ」という)が、普段廃棄しているキクラゲの残渣を有効活用できないかと考えているということで、要氏の試みに賛同してくれた。こうして、各者の思いが一致し、キクラゲ飼料の共同開発が始まった。
キクラゲ飼料の主な材料は牧草、バガス(注3)、キクラゲの残渣である。バガスは沖永良部きのこがキクラゲの菌床として使用するものの一部を、キクラゲの残渣はキクラゲとして販売できない根本の部分を提供してもらっている。その他、リファインHDが調達した材料も混ぜ合わせた後、2〜3カ月発酵させればキクラゲ飼料の完成である(写真5、6)。コストは要氏が通常使用している飼料と比較すると半分以下で済み、経済性にも優れ、完成したキクラゲ飼料に期待を寄せていたとのことである。
また、栄養バランスについては知見を有するリファインHDからアドバイスをもらえるため問題なかったが、初めて完成したキクラゲ飼料は食い付きが非常に悪かったという。要氏は原料の比率を調整するなど試行錯誤を繰り返していたが、そもそも原料として使用しているバガスに原因があるのではないかという考えに至った。そこで、当初、キクラゲの廃菌床として使っていたバガスを飼料の原料として使っていたが、これを通常のバガスに替えたところ食い付きが良くなった(写真7)。
キクラゲ飼料の試作から牛が好んで食べるようになるまでには2年ほどかかったという。今後は、島ならではの農産物を新たに添加するなど、さらに試行錯誤を重ねていき、将来的には島内で産出された農産物だけで配合した飼料にしたいと考えている。
(注3)サトウキビ搾汁後の残渣。