牛肉の輸入がこれだけ急速に伸び、輸入量が国内供給量の3分の1を占めるまでになったにもかかわらず、中国政府の反応はなぜ薄いのか。その答えは、牛肉の重要性、そして、「肉牛農家および酪農家への救済は今年農業農村部にとって一番重要な問題かつ最も困難な課題」(同部副部長、2024年10月25日「高質量発展」に関するメディア懇談会)との発言に集約されていると考える。
(1)畜産行政における牛肉の位置付け
中国語で「肉」と言えば「豚肉」を指し、中国食肉行政で最も多くの政策が実施されてきたのも豚肉であった(注13)。牛肉輸入量が2016年に50万トンを超え、18年には100万トン、20年には200万トン超えと急激に増えてもそれは変わらず、牛肉の位置付けはここ数年、食肉生産量に占める牛肉の割合と同程度だったと考えられる。具体的には、23年時点で5794.3万トンに上っていた豚肉の生産量に比べ、牛肉は752.7万トン、羊肉は531.3万トン、卵類でも3563.0万トンであり、全体の食肉生産量に占める牛肉の比率は7.7%に過ぎない(表5)。
(注13)例えば、第13次5カ年(2016〜20)の農業農村部計画(当時は農業部)は豚肉とそれ以外とに分けて策定された。
(2)牛肉問題への政府の一連の対応
加えて、牛肉問題に対する中国政府の動きを確認したい。これは、牛肉価格の低迷という市場に端を発する計画外の事態に政府はどう対応するか、ということでもある。
2023年から続いていた牛肉価格の低迷に対する農業農村部の最初のメッセージは、24年6月21日の「肉牛生産の安定化に関する通知」であった。5月18日に当時の同部部長が汚職を理由に拘束され、新たな部長が着任していない状況で、同通知の公表は静かに行われた。新しい支援策は示されず、地方の担当部門に対して所定の支援策を速やかに実施するよう促す記載があるだけであった。その後、新たな同部部長が内定した時点で問題は牛肉の価格低迷から肉牛飼養農家と酪農家の赤字経営問題に発展しており、7月24日の国務院新聞弁公室主催「高質量発展」メディア懇談会では、部長内定者が貧困対策(中国語で「脱貧攻堅」、「反貧困」)について自ら説明と質疑を行っている。
24年8月21日には同部長内定者参加の下、畜産業界関係者などと乳牛および肉牛の生産情勢に関する座談会を開催したことをホームページで発表した。そして新部長が就任するまさにその日、9月14日に成文化されたのが「肉牛乳牛生産の安定化に関する通知」(注14)(以下「24年9月通知」という)であった。6月の通知とは異なり7政府機関連名での通知となったことは、牛産業への支援が農業農村部だけではなく政府全体で行うものとなったことを示した。
これらの動きを経て、24年12月には商務部が輸入牛肉に関するセーフガード調査の実施を公表した。これが24年最後の食肉行政の動きとなり、25年2月の一号文件で肉牛飼養農家支援が明記されるに至ったのである。
(3)牛肉問題に見る計画外の課題への政府対応
牛肉問題への農業農村部と政府の対応をどう理解するか。
牛肉問題に関する政府文書としてまとまっているのは2024年9月通知である。この通知で示された七つの支援策の一つは貧困対策であり、「牛肉関連産業は、一部の経済未発展地区では脱貧困地域および脱貧困住民を支える重要な収入源となっている。個々の農家に有効な対策を実施することで、可能な限り牛肉などの価格下落がこれらの飼養農家に影響を及ぼすことがないようにする」とされたように、同通知で目を引くのは以下の2点であった。
ア 牛関連施策の中で、「母牛の基礎的な生産能力の維持を突出した課題」とすること、「『脱貧
困』を果たした地区および住民」への支援を強化することを優先したこと。
イ 「主要な飼養場経営者への個別訪問を主体的に行い、飼養経験が豊富でその管理レベルが
比較的高く、貸付信用レベルが高い者はホワイトリストに列記するなどにより、金融機関が
適切なリスク管理をしつつ融資ができるよに促す」など課題を抱える飼養農家への個別対
応を進めたこと。
その後、新しい通知、支援策が出されることはなく、25年3月に公表された25年農村農業部重点農業補助政策(予算支援項目)でも肉牛飼養農家への支援は記載されていない(注15)ことを踏まえると、牛肉問題への政府対応は以下のようにまとめられるだろう。
(ア) 政府としてその問題に注目していることは示された(が、実効性のある支援策は金融
措置以外中央政府主導では行われていない)。
(イ) 既存の支援策、行政サービスを各飼養農家に着実に届けるよう地方政府に働きかけた
ことには一定の効果があった(少なくとも事態は沈静化した。なお、農業農村部の職員数
は規定上721人に過ぎず、政策の遂行は地方政府の関係職員頼り(注16)である)。
(ウ) 牛肉の国内生産政策について国レベルで目に見える変更、追加はなかった。
なお、牛肉問題が顕在化するより前に、家畜の中で乳牛だけ小規模飼養農家数が増えていたことは示唆的である(表6)。肉用牛と乳用牛の飼養農家は中国では厳密に分かれておらず、乳価に比べて牛肉価格が高い場合は乳用牛が肉用として出荷され取り引きされるため、ここ数年の生乳価格の低迷が23年からの牛肉価格下落の一因になった、ともいわれている。中国政府が畜産業の大規模化を進める(注17)中でこれに反する動き(小規模飼育農家の増加)があったこと、また、上半期のメディア定例会の農業農村部の発言などから、次期五カ年の畜産の計画行政では肉牛よりも乳牛関連政策が充実される可能性がある。
(注16)2024年に実施された食品安全の観点から問題のある「肉類産品の違法行為処罰プロジェクト」の実施主体も市場監督管理部門であり、農業農村部門ではない。
(注17)畜産業界メディアはしばしば「集中化」(規模の拡大と巨大企業への集約化、これによる産業チェーンの一体的変革の促進と産業全体のレベルアップの推進)に言及する。トップ10の企業の市場占有率、といった記事がこれに該当し、例えば養豚であれば「ビル養豚」企業の台頭に代表される業界構造の改善が進められている。大規模化率も5カ年計画の指標の一つで、自給率目標に並ぶ意味を持つ。
(4)肉牛飼養農家支援の根底にある貧困対策(「脱貧攻堅」、「反貧困」)
中国の全国規模の食肉団体は中国畜牧業協会と中国肉類協会である。民間主体の後者は、首都北京に駐在する各国在外公館の農業担当官との会合を半期に一度開催している。2025年1月の同会では、1)中国における牛肉流通チェーンの中で輸入牛肉の流通は特に不透明である、加えて、2)各種畜産物が価格低迷に苦しんでいる中、牛肉は特に飼養農家にしわ寄せが及んでいる、ついては、3)セーフガード調査の実施によって流通経路が解明され、関係者間の利益配分が適切に行われるようになることを期待する―旨の発言があった。流通については、牛肉価格の低迷前から問題となっていた牛肉、特に内臓部位の密輸を巡る問題の解決につながればという期待も示された。
同協会からは「中国の肉牛飼養農家の中には将来を悲観して自死を選ぶ者も現れており、国家としてそのような状況にある農家に対して何らかの措置を執るのは当然」との発言もあり、セーフガード調査実施の大きな原因の一つは中国の肉牛飼養農家の生活困窮者への対策があったことが示唆された。畜産を専門とする大学教授も「昨今の肉牛飼養農家の問題は、近年、中国共産党が強力に推進してきた脱貧困政策と密接に関連している。数年前の牛肉価格は好調であり、その時に肉牛の飼養で脱貧困を達成した地域は多い。彼らを貧困状態に戻さないことが畜産行政の最重要課題」と述べている。
中国共産党は21年、党創立100年周年大会を開催し、最大の功績として中国全土での「小康社会」の実現を宣言した。1978年に改革・開放を掲げて経済発展に舵を切った際、「小康社会」の実現をスローガンとして掲げ、それ以後「脱貧困」(「国家級貧困県」としてリスト化された地方の解消)政策を40年以上も続けてきた。現在は貧困県を再び出さないことを最重要課題に据えている。25年の一号文件で「三農」政策の基本原則として明記されたのは、国家食糧安全保障の堅持と脱貧困成果の堅持であった。
25年4月に行われたメディア定例会で、農業農村部は現下の行政課題と成果を七つの項目から紹介した。そのうちの一つは肉牛・乳牛飼養業の赤字問題であり、うち一つは脱貧困堅持政策であった。具体的には、1)基層行政機関の職員が日常的に監測対象者(貧困状態に戻るまたは新たに貧困状態になることが特に懸念される者として専用ビッグデータバンクに登録された者)を個別訪問する取り組みが奏功していること、2)対策対象地域の労働者3000万以上に就業の機会を提供するとの政策について3月末時点で3089.8万人の就労を確保したこと−などを紹介した(注18)。24年7月の国務院新聞弁公室主催「高質量発展」メディア懇談会でも同部部長内定者が貧困対策について自ら説明と質疑を行い、支援成果として「監測対象者のうち60.4%は貧困状態に戻るリスクが基本的には無くなった」「脱貧困農家の1人当たり平均可処分所得(年間)は21年の1万4051元(29万5493円)から23年には1万6396元(34万4808円)に増加」など、所得格差は是正傾向にあることなどを紹介(表7)(注19)しており、25年4月のメディア定例会は貧困対策を重視していることを継続的に示すものであった。なお、肉用牛主要産地(注20)10省・自治区は1人当たり平均可処分所得がいずれも全国平均(3万9218元(82万4755円))を下回っている。
中国政府から見た牛肉問題、行政課題としてのそれは貧困対策であったと言えるだろう。そこから牛肉の生産量調整や自給率向上の視点を読み取ることは難しい。
(注18)中国では特に大学卒業生、困難人員(障害を持つ者など)と並んで「農民工」(農村からの出稼ぎ労働者)が就労支援対象とされている。