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内外の伝統的な砂糖製造法(16)

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最終更新日:2012年10月10日

内外の伝統的な砂糖製造法(16)
〜15-16世紀の一大砂糖生産地、コロンブスも来たポルトガル領マデイラ島〜

2012年10月

昭和女子大学国際文化研究所 客員研究員 荒尾 美代

 コロンブスが新大陸に到達して、さとうきびをアメリカ大陸に初めて植え付けた大航海に向かう以前から16世紀半ばまで、ポルトガル領のマデイラ島がヨーロッパにおける砂糖の一大生産地であった。

 マデイラ島は、ヨーロッパ最西端の国ポルトガルの首都リスボンから約1000キロメートルの北大西洋上に浮かぶ。冬でもハイビスカスの花が咲き、バナナの木が険しい斜面に茂り、北ヨーロッパの人々が、‘太陽’ と‘夏’ を求めてやってくるヨーロッパ有数のリゾート観光地である。マデイラ酒が特産として知られている。


 ポルトガルの海外探索・進出の旅は、エンリケ航海王(1394-1460)の指揮によって始まった。1415年に北アフリカのセウタを征服したのを嚆矢こうしとし、大航海時代の幕が開けられた。エンリケが派遣した探検隊が大西洋のマデイラ諸島に到達したのが1418年のことだった。まず、マデイラ諸島のひとつであるポルト・サント島を発見し、翌19年にはマデイラ島に到達した。ポルトガルの大航海は、大西洋のマデイラ諸島への到達から始まったのである。

 ポルトガル人がさとうきびをマデイラ島に移植したのは1425年のこと。大西洋の島々の中で最初のさとうきび栽培だった。その後、さとうきびは次々と他の大西洋の島々に移植されていったが、その時期はマデイラ島の移植時期からは、50年以上も後のことである。アソーレス諸島には1474年、カナリア諸島には1483年、サントメ島には1484年とされる。

 マデイラの砂糖が最初にヨーロッパに到着したのは1450年で、1500年までに西ヨーロッパの至るところまで輸出され、東はコンスタンチノープル、エーゲ海のトルコ領沖にあるギリシャ領のキオス島、貿易の中心地であったアナトリア海岸の市場までも流通していた。マデイラ島には、フランス、フランドル注)、イタリアなど、ヨーロッパ各地から砂糖の買い付けに商人たちが集まってきていた。

 コロンブスもその一人だった。

注)オランダ・ベルギー国境にかけての北海沿岸地域


 コロンブスは、1451年頃イタリアのジェノバで生まれたとされる。彼が、大航海へ出発する以前の若いころ、ジェノバの豪商であるディ・ネグロ家などの船団の乗組員となって、地中海やエーゲ海の港を訪れていた。1476年に地中海での航海の際に難破し、海に投げ出されたコロンブスは、ポルトガルの南部アルガルベ地方に漂着した。その後、首都リスボンに行ったとされる。

 当時のリスボンは、14世紀以来、西ヨーロッパの貿易の重要な拠点となっていた。また、大西洋に面しヨーロッパ大陸最西端に位置するこの貿易港は、未知の陸地を求める大航海の出発港でもあった。イタリア人は、商業海運業でヨーロッパの商業港を駆け巡っており、リスボンには、ジェノバ人社会が形成されていた。コロンブスは、リスボンのジェノバ人社会の中で、約10年間を過ごすことになる。


 さて、コロンブスは確実に数回はマデイラ島を訪れている。

 1478年にマデイラ島のフンシャルに来ていた砂糖商人の一人としてコロンブスの名前がみられるのが、マデイラ島にコロンブスが来たという最初の正式な記録である。関わっていた会社の代表者であるパオロ・ディ・ネゴロを通じて、2400arrobas(約3万5400キログラム)もの砂糖を、ジェノバの貴族ルドヴィコ・センチュリオンの元へ送るという用務だった。しかし、コロンブスがマデイラ島に来たのは1478年の夏で、砂糖生産が終了していた時期で、この取引は成功しなかった。コロンブスは、公証人の前で、この取引の失敗の理由について説明しなければならない羽目となった。しかし、コロンブスがマデイラ島の砂糖産業と直接的な関係があったことには変わりはない。

 コロンブスがマデイラ諸島の一つであるポルト・サント島の領主の娘であるフェリパ・ペレストレリョ・エ・モイスとリスボンで出会い、結婚したのが1479年末か1480年とされる。ペレストレリョ家は、1418年のポルト・サント島「発見」後に入植した貴族で、イタリア系の名門であった。コロンブスとモイスの間には、長男ディエゴがまもなく生まれた。ポルト・サント島には現在もモイスの実家が当時の面影を残しながら保存されている。

 また、コロンブスはアメリカへの第3回目の航海の際にも、ポルト・サント島とマデイラ島に立ち寄っている。

 このように、マデイラ諸島は、コロンブスと縁が深い地なのである。


 では、当時の砂糖製造法はどのようなものであっただろうか。

 残念ながら、マデイラ島での製糖技術を伝える文字史料は確認されていない。しかし、わずかな情報から15世紀にマデイラ島で行われていた製造法の一端を検証することが出来る。まず、煮詰め工程については、1回行う白砂糖と、2回行う白砂糖とがあったことがわかる。1496年には、2回煮詰め工程を行う白砂糖は、1回のみのものよりも、値段が2倍近かった。2回目の煮詰め工程というのは、一度結晶化させた砂糖を、水を加えて再び加熱し、清浄工程を念入りに行った砂糖と考えられる。

 このように、煮詰め工程の回数が1回だけか、2回かによって、砂糖のグレイドが異なっていた。


 次に砂糖の形である。マデイラ島の首都フンシャル市の紋章からその砂糖の様相を確認することが出来る。紋章には、当時の砂糖の形が描かれており、それは円錐形で、弾頭のような砂糖の塊である(写真1)。町の歴史建造物である市役所前広場の塔の紋章にも、円錐形の砂糖が5つ刻まれている。
 この砂糖を、ポルトガル語でパン・デ・アスーカル(pão de açúcar)と呼んでいた。日本語にすると、「砂糖のパン」という意味である。パンとは、私たちが日常食べるパンのことで、この言葉はポルトガル語が語源である。遥か昔、江戸時代の日本が鎖国を行う前、ポルトガルとの交流があった頃に日本へ伝わった。その後、鎖国下で、ヨーロッパの国で貿易を許されたのがオランダだけであったが、オランダ語でパンを意味するブロード(broad)という言葉は日本に根付かなかった。すなわちオランダがやってくる以前に伝えられたポルトガル語のパンという言葉を塗り替えることができなかったのだ。明治に入って、西洋文化を日本は積極的に取り入れたが、英語のブレッド(bread)も、ポルトガル語源のパンにとって代わる一般名称にはならず、現在に至っている。


 さて、話が横道にそれてしまったが、このパン・デ・アスーカルを作る素焼きの容器フォルマ(forma)が発掘されて残されている。やはり、逆円錐形で植木鉢のように底に穴が開いている(写真2)。15〜16世紀の地層から出土されているので、マデイラ島の砂糖生産全盛期の分蜜には、このような容器を使用していたことは疑いようもない。
 発掘調査の結果から、マデイラ島で使用されていたフォルマには、大中小と3タイプあったと考えられている。これらのうち大きい方の2種は、上部の直径が55〜30センチメートルほどで、小さいタイプは直径20センチメートルくらいと考えられている。

 考古学の世界では、これらの破片から、その容器がどこで作られたかを推定するために、土器の成分を調べるということが行われる。その結果、これらのフォルマは、マデイラ島で作られたものではなく、ポルトガル本土のバレイロ(Barreiro)、ロウリーニャ(Lourinhã)、アベイロ(Aveiro) で作られて運ばれたと考えられている。マデイラ島には、このような土器作りに適した土がなかったのであろう。本土からは1000キロメートルは離れてはいるが、世界を股に掛けていたポルトガルにとっては造作無いことだっただろう。


 現在、マデイラ島では、「砂糖」は作られていない。アグアルデンテという蒸留酒(ラムのこと)と、日本の「黒蜜」のようなシロップ状のメル(mel)を作るための工場がマデイラ島内に2か所稼働しているにすぎず、15〜16世紀の全盛期の面影はない。太い紫色の茎のさとうきびが少しではあるが栽培されている(写真3)。
 私が訪れたのは、島の中部沿岸にあるカリェタ工場(Engenho da Calheta)である。稼働するのは4月中頃から約1か月ほどだというが、それ以外の日でも一年中工場の設備を見ることができる。

 この工場は、1894年以来、蒸気機関によるシステムで運転されている。さほど大きくはない工場内には、コンベアーでさとうきびの茎をつぶしながら圧搾する機械が3台設置され(写真4)、メル用の鍋は2つある。天井まである巨大なタンクが並び、アグアルデンテ用のジュースを発酵させている。
 「砂糖」は作っていないので、白砂糖を作るために分蜜した残りのモラセスは存在しない。モラセスの中にはまだかなり糖分が残っているので、再加熱してショ糖の結晶を採るか、または発酵させて蒸留酒を造ることは古今東西行われている。モラセスとメルは、どちらも黒い蜜状なので混同されてしまう節があるが、舐めると違いがわかる。メルの方が、雑味が少なく上品な味わいだ。

 さとうきびジュース100パーセントからつくるメルを使ったマデイラ島を代表する伝統菓子にボーロ・デ・メル(bolo de mel)という焼き菓子がある。切り分けるケーキ状のものから、一人分の小さなものまでサイズはいろいろあり、空港や土産店で購入できる日持ちがする菓子である。この工場では、40キロものボーロ・デ・メルを一年に一度作り、そして一年後にこれを切り分けるイベントをこの町で行っている。ドライ・フルーツ、アーモンドなどのナッツ類、アニスなどの他に、シナモン、グローブなどポルトガル人の大航海の目的であったアジアで求めたスパイスも入った、真っ黒な黒蜜風味がする菓子だ。

 甘くてスパイシーなこの伝統菓子には、栄華と衰退のマデイラ島の砂糖の歴史が詰まっている。
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