内外の伝統的な砂糖製造法(17)
最終更新日:2012年11月9日
内外の伝統的な砂糖製造法(17)
〜コロンブスがさとうきびをアメリカへ<ドミニカ共和国>〜
2012年11月
昭和女子大学国際文化研究所 客員研究員 荒尾 美代
クリストファー・コロンブスは、アメリカ大陸に初めて到達した人物として知られている。前号では、コロンブスも滞在したポルトガル領マデイラ諸島の砂糖生産について記したが、今号は、その後のコロンブスを軸にして、歴史に刻まれた砂糖製造法について紹介したい。
コロンブスは、1484年末頃、ポルトガル国王ジョアン2世に、当時マルコポーロが伝えていた黄金の国シパング(cipangu)、すなわち日本を目指す大航海プランを持ちかけるがかなわず、約10年間過ごしたポルトガルを離れ、スペインへ向かった。1485年中頃、スペイン女王イサベルとフェルナンド王へ話を持ちかける。しかし、正式な回答はなかなか届かず、再びポルトガルのジョアン2世の元へ赴き、また弟のバルトロメーを、イギリスおよびフランス国王へプレゼンテーションを行わせるために派遣していた。コロンブスはスペインに戻り、回答を待ちながら何年かを過ごすが、最終的にこのプランを検討する委員会および再考をおこなった枢機院で否決となってしまった。弟が滞在しているフランスへ、再度の望みを賭けて援助の願いを出すために向かおうと決心した時、運よく、会計面からスペインが得る利益の大きさをイサベル女王へ説く人物が現れ、スペインのバックアップが成立し大航海を実施することが出来た。
1492年にスペインの地中海にあるパロス港を3艘の船で出港し、スペイン領であったカナリア諸島に寄り、西回りでシパングを目指した。しかし、最初に到達したのは、カリブ海のサン・サルバドル島と言われ、次がキューバであった。そして3番目に上陸したのが、現在ハイチとドミニカ共和国であるイスパニョーラ島であった。コロンブスは原住民から、シバオ(cibao)という場所があると聞いて、シパングと発音が近いことから、ここが日本だと勘違いしてしまった。
コロンブスは、翌年いったんヨーロッパへもどり、半年後の1493年9月出発の第2回目の航海の時に、さとうきびを現在のイスパニョーラ島へ移植した。試しに少し植えてみたのが、1493年11月下旬から1494年1月上旬の間であったと考えられる。コロンブスは、さとうきびの根付具合をみて、「十分に成長することが期待できる」と記している。これが、南北アメリカ大陸、そしてカリブ海がある中米、すなわちアメリカ大陸に初めてさとうきびが渡った記念すべき年なのである。
アメリカ大陸に初めてさとうきびが渡った地、現在のドミニカ共和国は、植民地建設による世界進出を図ったスペインの拠点となった。首都サント・ドミンゴには、アメリカ大陸初のヨーロッパの植民地都市が形成された。その都市が現在では世界遺産に認定され、保存されている。アメリカ初の病院は、ボロボロに崩れているが、その姿を今に伝えている。同じくアメリカ大陸初の聖堂もある。コロンブスの息子ディエゴが、1520年に2代目総督となり住んだ家も、博物館として残されている。サント・ドミンゴには、500年の時を経ても、当時の面影が随所に残されているのである。
都市だけではなく、砂糖生産現場の遺跡も残されている。コロンブスが亡くなったのが1506年。筆者は、彼の没後500年を記念して、ドミニカ共和国サント・ドミンゴ市で開催された砂糖の歴史シンポジウムに招聘された機会があったので、その時に案内された遺跡を紹介しよう。
先に述べたように、コロンブスの第2回目の航海時に、初めてイスパニョーラ島へさとうきびが移植された。1504年から砂糖が作られ始め、1515年までにスペイン本国へ輸出するまでになった。イスパニョーラ島には、1530年までに33〜34もの工場が作られ、1570年までは工場数は変わらず、その後さらに増えていったとされる。
先に紹介した博物館に残る器具類から製造法を簡単にみると、ローラー式の圧搾機で、さとうきびを搾る(写真1)。鍋で煮詰めて、不純物を除く(写真2)。植木鉢のように底に穴の開いた容器に入れて分蜜する(写真3)という方法だ。
サント・ドミンゴ市内から車で約1時間で到着するエンゴンベ工場は、1546年に建てられた。さとうきびを圧搾するために、最初は馬の畜力、その後ハイナ川の水を引いて水力を動力とした。
この遺跡には、イスパニョーラでは唯一の16世紀に建てられたゴシック様式ではない新しいルネッサンス様式の礼拝堂がある。広大な工場の地は、同時に生活の場でもあり、植民地化とともに、原住民やアフリカからの奴隷をキリスト教化させた歴史の一端が、くっきりと残されている。
1560年ごろの建設と言われるデイエゴ・カバジェーロ工場は、島で最も大きいプランテーションである。ニグワ川に面し、川の水を利用したことがよくわかる水路が、広大な緑の敷地の中に点在している。さとうきびの圧搾には水車の動力を利用した。2つ鍋用の鋳物製と、5つの鍋用の煉瓦製竈が(写真4)残されている。
最後に紹介するのは、1502年という早い時期にこの島にやってきたフランシスコ・デ・トスタードによって建てられたボカ・デ・二グラ工場である。
ここでは馬の畜力によって、ローラー式の圧搾機を回転させて、さとうきびジュースを搾った。興味深いのが、一見闘牛場かと思われるような円形の圧搾場である。この施設は、グランド部分が掘り下げられていて、その部分に3連式のローラー圧搾機を設置し、ヒトがさとうきびを挿し込んで圧搾する。グランド部分より少し高いところに、圧搾機に動力を送る長い棒につながれた馬がぐるぐる回る円形の枠の「地面」がある(写真5)。闘牛場に例えると、観客席で馬が回っていて、戦う場所でヒトがさとうきびを圧搾しているという構図だ。圧搾されたジュースは、「闘牛場」から勾配をつけた通路を通って自動的に貯蔵用のタンクに流れ込む。
18世紀には所有者が変わり、この時建てられたボイラーハウスも、グランドを掘り下げた部分にある(写真6)。上部階には6つ並んだ鍋が掛けられるようになっている(写真7)。
砂糖の歴史を、世界史レベルでみると、アフリカの奴隷が新大陸に連れて行かれ、過酷な砂糖生産に従事させられたことを抜きには語れない。朝から晩まで自由のない生活。しかし「歌う自由」は黙認されていた。奴隷貿易の歴史があるところで、リズミカルな音楽が誕生し、今に伝えられていることと関係があるのである。
最後に紹介した遺跡で、奴隷の末裔の人々が奏でる音楽を聴いた。
砂糖の歴史が、音楽にのって、確かに私の胸に届いた瞬間だった。そして、これまで奴隷の歴史から砂糖を見ていなかった私を気づかせてくれた。
ドミニカ共和国は、これらの遺跡にさらに3つの砂糖工場跡を加えた遺跡群について、ユネスコへ世界遺産登録の申請を行ったが、2005年に登録延期となってしまった。砂糖の歴史工場群の遺跡が世界遺産に登録され、後世にも広く伝えられることを望んでやまない。
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