てん菜生産に関する研究開発の動向について
最終更新日:2013年12月10日
てん菜生産に関する研究開発の動向について
2013年12月
NPO法人グリーンテクノバンク 専務理事 八戸 三千男
はじめに
てん菜が日本に渡ってきたのは1870年(明治3年)のことである。種子、製糖機械をヨーロッパから導入し、官主導でてん菜産業を立ち上げようとしたが、原料確保、工場運営ともにさまざまな困難があり、中断、再開が続いた。第2期てん菜産業の発足ともいえる1920年(大正9年)から1950年代にかけて、収量は10アール当たり2トン前後に低迷するが、1963年(昭和38年)以降、急速に収量は伸び、1976年には5.1トンに達した(図1)。この生産性の向上は北海道の他の主要畑作物と比べても際立っており、生産者の努力はもちろんのこと、栽培法、新品種の導入など、技術開発によるところが大きい。このように1960年代から国内のてん菜研究は本格化する。国が甘味資源作物の生産振興を図り、日本てん菜振興会てん菜研究所が札幌、熊本に開設(1961年)され、北海道以外にもてん菜産業を起こすことを模索した時期がある。結局、1970年以降、てん菜生産は道内に限定されたが、暖地てん菜の研究の成果は、多収・耐病性育種材料などとして北海道のてん菜栽培の技術開発に生かされている。本稿では、筆者が関係したてん菜生産の研究開発について紹介してみたい。
1.てん菜生産に寄与した技術開発
1960年代以降、その後のてん菜産業に大きな影響を与えた技術開発、出来事が3つある。
一つ目は、日本甜菜製糖株式会社による「てん菜紙筒移植技術」の開発である(1963年)。雪解けを待って行われるほ場への播種作業は、天候とほ場の水分状態に左右され、遅れれば減収につながる。同社の技術陣は、チェーン状につながる紙筒が畳み込まれたペーパーポットと、その上で育苗された苗をほ場に植え込む自動移植機を開発、実用化した。3月からビニールハウスで育てられた苗を使うことで、生育期間を大幅に稼ぎ、増収に大きく貢献した。現在(2012年)の移植率は87パーセント、大規模畑作に日本人らしい細やかな技術を注いで完成したてん菜紙筒移植技術は、国が行った「農業試験研究一世紀記念事業」(1994年)で農林水産大臣賞に選ばれている。
二つ目は、多収と高糖高品質を実現させた国産新品種「モノヒカリ」の育成である(1982年)。農林水産省北海道農業試験場で育成されたモノヒカリは、当時日本で普及していたヨーロッパ品種の水準を大きく超え、海外からも注目された(図2)。てん菜研究所から受け継がれた優れた育種素材と、それを生かすペアクロス法(注1)という新たな育種法が組み合わさった結果である。これを契機にその後も新品種の育成が続き、「モノパール」、「モノホマレ」(いずれも1988年)、「モノホワイト」(1989年)などが普及に移された。モノヒカリの育成後、北海道農業試験場(後の(独)農業・食品産業技術総合研究機構北海道農業研究センター(以下「北海道農業研究センター」という。))の育種水準の高さが評価され、欧米の種苗会社との共同研究が進められた。モノホマレ、モノホワイトはこの共同研究の成果である。これら4品種の普及により、1990年代初めに国産品種のシェアは30パーセントを超え、過去最高となった。ところで、モノヒカリが普及に移されたすぐ後の1984年頃、ヨーロッパの種苗会社が日本での試験に持ち込んだ新品種の収量・糖分のレベルは、モノヒカリにほぼ近いものだった。モノヒカリは、取引制度変更後の栽培品種の先導役を立派に務めたといえる。
(注1)ペアクロス法
両集団間の組み合わせ能力が高い、自家不和合性の種子親O型集団(細胞質雄性不稔の維持親)と花粉親集団を選抜素材として選び、これら集団間で個体単位の交雑(ペアクロス)を行うとともに、交雑個体を栄養系(挿し木)で保存。交雑後代の種子を用いた生産力試験から、高い組み合わせ能力を持つペアを数組選抜。選抜ペアの栄養系を種子親同志、花粉親同志の交雑(ペアクロス)を行って合成し、高度な組み合わせ能力を持つ新種子親(O型)系統、新花粉親系統を育成する方法。比較的小規模な材料集団で、短期間に育種を進めることができる特徴を持つ。
三つ目は、1986年、取引制度が重量取引から糖分を加味した取引制度に移行したことである。1920年以来66年間続けられた重量による取引を変更するためには、産学官が連携した多くの試験研究を必要とした。制度変更後の調査によれば、変更後は原料の糖分と製糖歩留まりが次第に欧米並みに向上し、高品質原料と量の確保に向け、地域の実情に合わせた品種が求められ、多様化していることが明らかにされた。
ところで、モノヒカリは気象条件により抽苔が発生したため、普及面積は最大時で6,855ヘクタール(1987年)にとどまった。しかし、米国では抽苔せず、高糖・高品質に加え、当時問題となっていたネアブラムシに耐性があることが高く評価された。米国の種苗会社がモノヒカリを導入して普及した結果、1989年に4万ヘクタールを超え、その後も長期にわたり栽培された。このことは、農林水産省の研究機関で育成した畑作物品種が外貨を稼いだとして話題になった。
てん菜の育種は他作物に比べても複雑であるといわれる。これは植物の特徴によるところが大きいが、もう一つは、工場に運び込まれる原料作物として、品質と量を求められたことから、ヘテロシス育種(注2)などの最新の育種理論で育種が進められたためである。現在も北海道農業研究センターを中心に進められている育種研究のことを少し説明してみたい。
(注2)ヘテロシス育種
系統間の雑種が両親に比べて旺盛な生育を示すことがある。この現象がヘテロシス(雑種強勢)で、てん菜の収量増が期待できる。このヘテロシスを利用して系統間の雑種第一代(F1)を品種とする育種方法。
2.特徴ある北海道農業研究センターの育種
てん菜は、播種1年目に糖分を蓄積する根部が肥大、この植物体が冬期の低温を経て翌年に開花、種子をつける2年生の特性をもつ。従って、収量・糖分などで選抜し、選ばれた材料を交配に供することを繰り返す育種には、長い年月を要することになる。しかし、育種年限を短縮するためのさまざまな方法が取り入れられている。播種後、長日条件下で10週間ほどで開花結実する「1年生遺伝子」の導入は良い例である。2年生集団で収量などの特性を調べ、同質の1年生集団で選抜した系統の世代を進めるなどの育種操作は、器用な日本人向きで面白い。1年生遺伝子の利用は、時間と手間のかかる細胞質雄性不稔育種の年数を短縮し、育種操作を単純化するためには必須の技術であった。ところで、育種先進地の欧米とは異なるモンスーン気候の日本では、病害の発生が多く、褐斑病などに対する病害抵抗性の付与が重要な育種目標になる。北海道農業研究センターでは、種苗会社との共同研究の成果を生かした先進的な育種プログラムが進められ、スーパー耐病性品種ともいわれる「みつぼし(北海101号)」(褐斑病、黒根病、そう根病に抵抗性)が育成され、2015年から普及に移される計画である。褐斑病、黒根病の抵抗性については遺伝様式が明らかになり、抵抗性に関与する遺伝子近傍のDNA多型の情報を利用して選抜する、いわゆるマーカー利用の育種が可能になった。これは、北海道大学との共同研究によるものである。また、北海道大学では、現在利用されている雄性不稔細胞質(S型)とは異なる、細胞質雄性不稔性に関する分子生物学的な研究が行われ、世界的にも注目されている。
おわりに
地球温暖化がわが国の農業にも影響を与え始めている。近年の褐斑病などの病害の多発は、これと無縁とはいえないように思う。その意味で、北海道農業研究センターのてん菜育種研究は良い方向に向かっている。てん菜研究所時代から世界と交流し構築した遺伝資源、育種素材のストックは、これからも重要な役割を果たすことと思う。ところで、てん菜から生まれるのは砂糖ばかりではない。近年、バイオエタノール、医薬品素材としての天然セラミド、機能性食材としてのラフィノースなど、新たな素材生産分野の胎動がある。農業の国際化に重大な関心が注がれる今日だが、新たな研究開発を経て、てん菜という作物が一層北海道農業に貢献することを期待している。
参考文献
細川定治(1980)甜菜.養賢堂.
農業試験研究一世紀記念会(1994)農業試験研究一世紀記念事業の記録.
八戸三千男(2009)てん菜研究の50年〜北海道談話会と共に〜.日本育種学会・日本作物学会北海道談話会会報.50:167-173
田口和憲(2011)北海道農業研究センターにおける品種改良.特産種苗12:20-24.
黒田洋輔、田口和憲、岡崎和之、高橋宙之(2012)テンサイ新品種「北海101号」の特性. てん菜研究会報53:1-7.
八戸 三千男
1970年、てん菜振興会てん菜研究所研究員に就任。以後、同所および北海道農業試験場を通じ、てん菜の育種研究に14年間従事。その後茶樹の育種研究を経て、1993年から農林水産技術会議事務局研究開発官、2005年から北海道農業研究センター所長を歴任。2011年にNPO法人グリーンテクノバンク専務理事に就任し、現在に至る。
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