ホーム > 砂糖 > 話題 > 砂糖の魔法にかかった人形たち 〜第一回全国金花糖博覧会〜
最終更新日:2019年4月10日
今年は、織田信長がポルトガル人のイエズス会宣教師ルイス・フロイスから金平糖をもらって、ちょうど450年になる。角が出ている小さな砂糖菓子である金平糖は知っている人が多いと思うが、今回紹介するのは、同じ砂糖菓子でも製法が全く違う、モノの形を型で作る「金花糖」だ。
この金花糖、江戸時代の文献『守貞謾稿』(1853年)によると、モノの形を砂糖のアメで手作りする南蛮菓子の有平糖1)の代わりに、型で形を作るとある。砂糖でアメを作り、手で丸めたりひねったりしてモノの形を作るのが有平糖で、モノの形を彫った木型や瓦型に糖液を流し込んで作るのが金花糖だ。モノの形を作るという共通点はあるものの、砂糖の性質の利用は、全く異なっている。
金平糖と有平糖は、ポルトガル、スペインをルーツとする南蛮菓子だが、金花糖のルーツは、謎だ。
このたび、第1回全国金花糖博覧会「春を呼ぶ お砂糖人形展」が東京の浅草公会堂で開催された(平成31年2月21日〜24日〈助成:公益財団法人全国税理士共栄会文化財団、協賛:シュガーチャージ推進協議会/精糖工業会、協力:浅草芝崎町西町会、後援:東京都台東区/新潟県燕市〉)。金花糖という砂糖菓子の伝統を守るために、筆者も実行委員の一人として参加した。その模様を今回報告する。
形は出展者によってさまざまだが、結婚式の引き出物としてかつてよく使われた鯛(写真2)と、招き猫(写真3)の形が多い。金花糖は、現在では、ひな祭りの添え菓子のほかに、冠婚葬祭のお菓子として売られている。新潟では2月25日に行われる「天神講」(注)の砂糖菓子として有名だ。また、石川県小松市では、初詣と春と秋のお祭りに、生鯛に代わって、30センチメートルの金花糖の鯛を奉納する神社が多く、家庭では、12センチメートルの小さな金花糖の鯛を神棚に供える。
(注)学問の神様・菅原道真公の像や掛け軸を飾って、学業成就や合格祈願、子供たちの健やかな成長を願う風習。新潟県内の天神様行事は、もともとは、天の神を祭る日だったと考えられている2)。燕市の「天神講」は、金花糖の他、生菓子、粉菓子(餡入り落雁)の色鮮やかなお菓子を供える点が特徴で、「天神講のお菓子を食べると勉強ができるようになる」と言い伝えられてきた。
全国金花糖博覧会の発案者は、東京都台東区下谷で、菓子の問屋業を営む株式会社萬年堂の鈴木真善氏だ。都内最後の金花糖職人の一人「奈良屋」が15年くらい前に廃業した際に、型を譲り受けた。しかし、問屋なので実際に金花糖を作る工房はなく、6、7年考えた末、2011年に工房を建て、都内で途絶えた金花糖づくりを自らが職人として復活させた。鈴木氏は、他の産地でも金花糖づくりが下火になっているのを知り、「風習や思い出を次の世代にも伝えたかった」と、全国博覧会を思い付いたのだった。
金花糖で重要なのは、型だ。型がなければ金花糖は出来ない。
金花糖の木型を保存されている稲石一雄氏は、現在、「浅草ギャラリー遊」(東京都台東区西浅草)を運営されている(写真4)。今は廃業されているが、昭和38年くらいまで金花糖を製造していたという。西浅草3丁目はかつて浅草芝崎町と呼ばれ、昭和40年代には74軒の菓子屋のうち金花糖を作っている店が8軒ある「菓子屋横丁」だった。博覧会では、木型とパネルが展示され、木型の横に、鈴木氏が糖液を流し込んで作った金花糖が並んだ(写真5)。
鈴木氏の友人で武蔵野美術大学卒業の落語家、林家たい平氏は、「守ろうとしなければ消えてしまう」と訴える金花糖の応援隊長だ。博覧会初日の2月21日には、真っ白に型抜きされた招き猫(写真6)に色を塗る、林家たい平杯絵付け大会も開催された(写真7)。
出展者とその作品を以下に紹介する(写真8〜写真17)。
金花糖づくりに使う砂糖は、お店によって白ザラメ、グラニュー糖、上白糖と異なる。そして、糖液を火から下ろす煮詰め温度も異なっている。
山口堂(石川県小松市)の山口泰弘氏は、白ザラメで、糖液の煮詰め終了のタイミングは、かなりの高温だ。そのため出来上がった金花糖は固い。加賀銘菓の越野(金沢市)の越野英一氏も、白ザラメで、型によっても異なるが大体120〜125度くらいで糖液を煮詰め終える。型から取り出して、「ほいろ」という乾燥機に入れて乾かす。これは、後述する江戸時代の『料理秘事記』に記された作り方と共通している(表1)。篠原三松堂(佐賀県唐津市)の篠原宏司氏の金花糖は、上白糖を使い、口の中に入れた時に溶けやすいように柔らかめの仕上がりだ。後述する中国の『天工開物』3)に記された作り方と同じく(表1)、型が焼き物である(写真24)。作り方はシンプルにみえるが、実は奥が深い。
いつ頃から日本で金花糖が作られていたかは、定かではない。
元文3(1738)年から寛保元(1741)年まで用いられたとされ、豊後岡藩に関わるものと考えられる「御菓子品々直段帳」には、「きんくゎたう」の値段が記されている4)。延享4(1747)年書写の江戸幕府の御用菓子屋大久保主水と虎屋織江の製法書「干蒸菓子扣」(吉田コレクション)5)には、「金花とう 白き形なるモノナリ」(原文のまま記載)とあり、それは白いものだったことが分かる。明和5(1768)年には尾張藩の「尾州御小納戸日記」(徳川林政史研究所所蔵)にも重箱の中の菓子として金花糖の名前が見られる。この金花糖は、重箱に入るくらいなので、大きくはなかった模様だ。
作り方が詳しく出ている史料としては、享和3(1803)年書写の「料理秘事記」(写真25)が、筆者の知る限り最も古そうである。同書に記載された製法は現在と同じだ(表1)。また、同じ享和3年には、佐賀県の鶴屋菓子舗が所有する「鶴屋文
書」6)にも、簡単な製法が見られる。
金花糖と同様に型抜きする「獣糖」あるいは「享糖」といわれた砂糖菓子の作り方が、1637年の中国の文献に現れる。中国・浙江省で書かれた技術書である『天工開物』の砂糖の項目に、象や獅子の形を型抜きする砂糖菓子の記述がある。その作り方は、型は素焼きで、二枚重ねにした中に糖液を流し込み、すぐにクルクルと糖液の入った型を回して、余分な糖液を流し出すと、自然に一枚の砂糖の膜が出来て型にこびり付いているというものだ3)。これは金花糖の作り方と全く同じだ(表1)。
この文献は、江戸時代、日本にも輸入されていたので、型抜きしてモノの形を作る砂糖菓子の存在は、当時の日本でも知られていたと思われる。また、日本が「鎖国」をしていても、中国のみならず東南アジアからの「唐船」の貿易は認められていたので、型で作った砂糖菓子が長崎に舶載されていたかもしれない。
2008年、バングラデシュで金花糖と同じように型で抜く砂糖菓子を作っているところを見たときにはびっくりした。世界に目を転じると、バングラデシュの他でも、メキシコ、シチリア島2)など各地で作られているのである。
日本の金花糖のルーツはどこに求めることができるのか。歴史的にはいつ頃までさかのぼることができるのか。砂糖文化と共に、魔力をもって、私に問いかけてくる。
参考文献
1)荒尾美代(2005)「南蛮菓子と砂糖の関係」『砂糖類情報』(2005年12月号)独立行政法人農畜産業振興機構
2)溝口政子・中山圭子(2011)『福を招くお守り菓子』講談社
3)宋應星著、薮内清訳注(1969)『天工開物』平凡社
4)江後迪子・後藤重己・吉川誠次(1989)「江戸中期の「菓子値段帳について」『別府大学短期大学部紀要』第8号
5)虎屋文庫(2012)【史料翻刻】『和菓子』19号、虎屋
6)大園隆一郎釈、江後迪子訳・解説、筒井泰彦編(2006)『「鶴屋文書」にみる江戸時代の佐賀の菓子』鶴屋菓子舗