最終更新日:2019年6月10日
多くの人が一度は食べたことのある金平糖(写真1)。どうして、こんな形ができたのだろうか。その不思議な形には誰もが魅了されたことがあるに違いない。金平糖の歴史は、織田信長の時代にさかのぼる。17世紀初頭にポルトガルから砂糖菓子として信長に献上されたのが最初であると知られている。その後、徳川幕府や皇室への献上菓子としての地位を占めている。最近では皇居で主催されている園遊会でも、参加者に記念品として配られたとニュースで聞いており、日本の伝統的な砂糖菓子の代表格であると言えよう。
著者はかつて、NHKのテレビ番組「アインシュタインの眼」で金平糖の出来方について説明したことがある。その時にお世話になったのが、京都大学のそばにある150年の歴史を持つ金平糖の老舗「緑寿庵清水」である。その後、何度か足を運ばせてもらったのは、突起物の出来方に興味を持ったからである。緑寿庵清水では、この突起物のことを「イガ」と呼ぶ。これは、金平糖が結婚式などの慶事に使われるから「つの」と呼ぶのを嫌うためであろう。ポルトガルではウエディングシャワーとして小さな金平糖が使われたとも聞いている。
ポルトガルからもたらされた金平糖は、白いゴツゴツした小さな砂糖の塊だったらしい。その後、江戸元禄時代(1688〜1704年)には、長崎で似たようなものが作られていたが、その後、京都にも広がり、19世紀初頭には江戸でも作られ始めたといわれている。その頃には、今の金平糖に近い鮮やかな色に仕上がっていったという。江戸の文化の開花とともに砂糖菓子文化も開花したわけである。金平糖の語源は、ポルトガル語confeitoであろう。類似のconfetti(イタリア語)、confect(英語)、konfekt(ドイツ語)、dragee(フランス語)などの言葉がヨーロッパで使われていたが、これらは糖衣菓子という意味合いが強い(写真2)。
従って、砂糖だけで出来ているのは日本独自のアイデアかもしれない。チャイコフスキー(1840〜1893年)作曲の舞踊組曲「くるみ割り人形」にも、「金平糖の精の踊り」(Dance of the Sugar Plum Fairy)という小曲があるが、オリジナルでは「ドラジェ(糖衣菓子)の精の踊り」である。
この京都の老舗では写真3のような巨大な平底の鍋を使って12〜14日かけて糖蜜から金平糖を作る。この鍋は55度程度に加熱されており、ゆっくり回転している。小さな金平糖がザラザラ落ちていく間にコテでもって静かにかき混ぜ、わずかな音の変化を聴き分けながら糖蜜を振りかける。このタイミングが金平糖の成長をデリケートに左右する。このようにしてできた金平糖の外観を写真4に示した。(a)はマクロな光学顕微鏡写真、(b)は電子顕微鏡写真である。きれいな金平糖でも電子顕微鏡で詳細に見るとグロテスクに見えるかもしれない。著者の興味は、この突起したイガの出来方とその数である。
表面に突起を持つ金平糖は多くの人の目を楽しませてきただけでなく、科学者の興味をも引き続けてきている。有名な物理学者である寺田寅彦(1878〜1935年)など、金平糖がなぜこのような不思議な形をとるのかの科学者による随筆も多い。ただ、本格的な科学的な研究はほとんどないのが不思議である。これらの考え方を簡単に紹介すると、雪が千差万別の形をとる理由と同じで、結晶形態の安定性、つまり、何らかの理由でいったん突起が出来始めるとそれが濃度の高い糖蜜の方に成長し続けるからという考えや、乾燥した砂糖の小さな粉が丸い砂糖の表面に付着して突起が出来るというモデルなどがある。ただ、これらのモデルでは、後で述べるように、突起物の数の説明ができないというのが著者の考えである。この数を話題にする前に、どのようにして金平糖が作られているのかを紹介しよう。
金平糖も多様であるが、大きく分けると二つに分けられる。スーパーマーケットなどに出回っている安価なものでは、種としてグラニュー糖の小さな結晶を使い円筒ドラムを回転させながら一晩で作るようである。このグラニュー糖の結晶は直方体に近い形である(写真5(a))。他方、伝統的な製造方法では、ケシの実を種として使っていたらしい(写真5(b))。その後、緑寿庵清水では、ケシの実の代わりにもち米をすりつぶした「いら粉」という「おかき」のような粒(写真5(c))を使用していた。これはいら粉が糖蜜を十分に含むからであろう。緑寿庵清水では、このいら粉から、最初の3日でイガを出す工程があり、残りの10日前後で、そのイガを大事に育てて大きな金平糖にする工程がある。特に、突起物を作りながらイガとして育てていく最初の工程には熟練職人のなす技を感じる。
まず、一晩で簡便に作られた金平糖がどうして出来るかを調べてみた。金平糖を厚み100分の3ミリメートルの透き通るような薄片にして顕微鏡で観察してみた。これまで金平糖の形を調べた人は多いけれど、内部の組織を調べた人は不思議なことにいない。内部を観察してみると大変面白いことが分かる。まず、写真6(a)は普通の透過電子顕微鏡による写真である。中央部に種として使われたグラニュー糖の角(かど)を持った結晶が見える。その角を受け継ぐようにして、波打ったように縞模様が発達して突起として大きく発達してくることが分かる。従って、砂糖の細粒が表面にくっついて突起が発達するのではなさそうである。同じ場所を偏光顕微鏡で眺めたのが写真6(b)である。この顕微鏡では、結晶の方向に応じて干渉色が違うので、単結晶なのか、小さな結晶が集合した多結晶なのかが容易に判別できる。それによると、中心の種から大きな結晶粒が放射状に分かれて発達しており、この金平糖は大きな結晶粒のみで構成されていることが分かる。これは干渉色の違いからもはっきり分かる。そのため、簡便に作ったこの金平糖を噛むと、グサッと砕ける食感が得られる。この大きな結晶粒は急速に結晶が発達したときの特徴でもある。
他方、伝統的な方法で丁寧に2週間かけた緑寿庵清水の金平糖はどうであろうか。写真7(b)の偏光顕微鏡写真でも種であるいら粉の角(かど)付近から波が年輪のように縞状に発生している。しかし、その大きな波が縞状に発達している部分は光を通さずに暗く見える。つまり多数の微結晶の緻密な集合体で出来ていることを示している。そのため、噛むと硬い感触をもち、簡便に作った金平糖がグサッと砕ける感触とは違った特徴を持つ。ちょうど、歯はアパタイト(注)の微細結晶が緻密に集合して出来ているから硬いのとよく似ている。ただ、微細結晶が集合した部分は表面がザラザラして光沢がない。そこで最後の仕上げとして、ゆっくり作った結晶で表面を薄く覆うことで透明感、光沢を出している。この光沢のある部分は、偏光顕微鏡写真ではほぼピンク色だけの鮮やかな干渉色として現れ、いら粉が大きな砂糖の単結晶に移り変わっているのがはっきりと見える。このように伝統的な手法で作られた金平糖は、種、微細結晶の集合部、表層の光沢部からなる3層構造になっている。この特徴は、緻密な微細結晶部がない簡易的に作った金平糖との大きな違いである。この緻密部があるからこそ、噛んだときのカリッとした感触だけでなく鮮やかな金平糖の色、香り、味が10年以上も保たれるのだと思われる。
(注)カルシウム、リン、フッ素などを含む鉱物。骨や歯の主要成分。歯のインプラント材料や人工骨にも使われる。
では、「イガ」の数はどのように決まるのであろうか。そもそも「イガ」の数は決まっているのだろうか。江戸時代に幕府に献上されていた金平糖は36本の「イガ」を持つものだったらしい。市販されている簡便な方法で作られた金平糖の「イガ」を数えてみると16と24本くらいに最大の分布をもつ。緑寿庵清水で作られた金平糖のイガの数の分布を調べてみたのが図1である。イガの大小を合計してみると18本程度になる。これらの、16、18、24、36本という数字は意味を持つのであろうか。詳細な議論を別の機会にするとして、理想的に言えば、正多面体(正六面体とか正八面体など5種類しかない)の種結晶を作れば、その角(かど)の数に依存する数の「イガ」が出来るであろう。江戸幕府に献上された金平糖は多数の金平糖から36本の「イガ」を持つものだけを選び出したと伝えられているが、当時の職人は経験的に正十二面体とか正十八面体の種にすれば、36本に近い「イガ」ができることを知っていたのかもしれない。
どこにでもある日本の代表的な砂糖菓子である金平糖。このありふれた菓子にも科学の不思議が山ほど詰まっていることに驚くとともに、小さな種の特徴を子々孫々受け継ぎながら大きな砂糖菓子に育て上げる金平糖職人の技に伝統と匠を感じる。