世界の砂糖生産地域を展望すると、米国は興味深い事例である。というのは、サトウキビ糖生産地域とてん菜糖生産地域が国内に併存するからである。南部にはサトウキビ糖生産地域が形成されたし、西部にはてん菜糖生産地域が形成された。さらに、米国資本が早くから海外に進出し、国内と海外の砂糖生産地域をめぐって利権が複雑に絡み合った。西インド諸島から輸入された粗糖は、東部の精糖工場で商品化された。
米国では19世紀末からたびたび関税法が施行・改定されたが、砂糖は関税法の影響を受けた。1890年マッキンレー関税法、1894年ウィルソン・ゴーマン関税法、1897年ディングレー関税法、1913年アンダーウッド・シモンズ関税法などである。さらに、1934年砂糖法が施行されると、生産割当制、関税、価格保証金を組み合わせることにより、砂糖の極端な価格の低下を抑える保護政策が実施された。政府の統制下で砂糖事業の安定化が図られ、砂糖生産地域は持続した。
こうした国家政策が展開する一方で、砂糖生産地域間の関係は変化していった。1860年代には、南北戦争によって南部のサトウキビ生産地帯は荒廃した一方、ハワイのサトウキビ糖産業が発展を始めた。1874年のアメリカ・ハワイ互恵条約の締結により、ハワイから米国への輸出が無関税の取り扱いを受けた。ハワイ革命(1893年)は砂糖生産者による米国へのハワイ併合運動を意味し、結局、1898年にはハワイは米国に併合された。同じ頃、欧州は、てん菜糖産業が発展したことにより、砂糖の輸入地域から輸出地域に変化した。その結果、欧州に砂糖を供給したキューバやフィリピンは、欧州市場を失い、米国への輸出に活路を開いた。
1910年頃の砂糖生産地域を要約した
表1を見ると、米国はサトウキビ糖においてもてん菜糖においても、世界の主要な砂糖生産地域の一つであることが分かる。ただし、国内の砂糖生産地域と海外の砂糖生産地域は、複雑に絡み合っていたわけである。
1910年代以降、砂糖生産は激動の時代を迎えたことが推察される。世界の砂糖生産の動向を見ると(
図3)、てん菜糖の生産は第一次世界大戦の影響を受けて著しく落ち込んだ一方、サトウキビ糖生産量は増加を続けた。製糖工場の大規模化や技術革新、砂糖生産地域の拡大などによって、世界の砂糖生産は増加した。1940年代以降の砂糖生産の動向を追っていけば、さらなる変化が把握できるだろう。
米国では、国内の砂糖産業の維持に貢献した砂糖法が1974年に廃止され、生産割当制や政府による直接的な補助金の供与は行われない政策へと移行した。それ以降、砂糖産業は縮小していき、衰退が進行したてん菜糖生産地域では、製糖工場がそのまま廃墟と化した姿をよく目にする
9)。それはまさにかつて栄えたてん菜糖産業を記憶する産業遺跡である(
写真5)。一方、そのような地域においてもてん菜を栽培する農民が協同組合を組織し、製糖工場を経営する事例も見られる(
写真6)。また、ミシシッピ川下流部では、砂糖生産が継続し、サトウキビ栽培と製糖業が行われている(
写真7)。