北アメリカ大陸における砂糖の製造は、17世紀のオランダ人開拓者たちが手仕事として砂糖精製を行ったのが最初である。18世紀に入り、1728年のニューヨークの都市計画では、サミュエル・ベイヤードの精糖所が記録されている。1754年にはピーター・リヴィングストンが精糖所を建設し、オランダ人から2人の同郷人が砂糖精製の技術を学んでおり、そのうちの1人はフランクリン・D・ルーズベルト大統領(1882〜1945年:第32代米国大統領〈1933〜1945年〉)の祖先であるアイザック・ルーズベルトであった。ロンドンで砂糖精製技術を習得したドイツ人移民のフリードリヒ・C・ハーヴェマイヤーとヴィルヘルム・F・ハーヴェマイヤーは、1799年にニューヨークに来て、1803年に職人5人を雇い、ヴァンダム通りでハーヴェマイヤー精糖所を開設した。その後、同精糖所は1861年にハーヴェマイヤー・アンド・エルダー社という社名でウィリアムズバーグ近くのイーストリバーに移転し、後にはスタンダード・オイル社と並ぶ最も強大なトラストを形成した米国精製糖会社(1891年設立)となった。
欧州では19世紀早々に始まったてん菜糖業は、米国ではペンシルべニア州フィラデルフィアのフランクリン研究所所長ジェームズ・ロナルドソンが1830年ごろにてん菜糖業導入の計画を立てたのが最初である。彼は欧州で同じ計画を持っていたジョン・ヴォーガンとジャコブ・スナイダーの仲介でジャコブ・ペッダーとフィラデルフィアでてん菜製糖工場を建設する契約を1836年2月6日に結んだ。ペッダーは2月8日に製糖業の研究のためにフランスへ旅立ち、5月16日には研究成果の暫定的な報告とともに300キログラムのてん菜種子を送った。彼の留守中、フィラデルフィアではてん菜糖業導入プロジェクトへの関心が高まり、フィラデルフィアてん菜製糖協会が設立された。ペッダーは8月に帰国し、協会所属のシャーマン社へ40ページの最終報告を提出した。しかし、社員の誰もてん菜栽培の実際の知識はなく、5月に届いたてん菜種子は遅く播かれたため、収穫したてん菜は家畜の飼料にしかならなかった。
米国のてん菜製糖工場は、ナポレオンの下で化学者のバリュエルと共同で実験を行った、当時ストラスブール(フランス北東部)の製糖実験学校校長をしていたイスナールが、マサチューセッツ州ノーサンプトンでエドワード・チャーチ(パリ近くの農場で暮らしていた)、デイヴィッド・リー・チャイルド(フランス、ベルギー、ドイツのてん菜糖業を研究していた)と共同で1838年に建設したのが最初である。イスナールはフランスからてん菜種子を調達し、農場主に配布した。1ヘクタール当たり29〜34トンのてん菜が収穫され、てん菜の糖分は7.5〜9%であり、1839年には590キログラムの砂糖を生産した。しかし、1841年には経済的困難が生じ、工場はわずか3年間操業しただけで閉鎖された。
1837年にはミシガン州ホワイト・ピジョンで農場主と市民がてん菜製糖会社を設立し、1838年に州から5000ドルの貸し付けを得て工場を建設した。しかし、工場経営は技術不足のために失敗し、1840年に閉鎖された。
その後10年余りが経過し、ユタ州ソルトレーク・シティでモルモン教徒によっててん菜製糖工場が建設されることになった。ユタ州は精製糖工場のある米国北東部地域からは遠隔地にあるため、輸送費がかさみ、砂糖は高価格で販売されていた。そのため、モルモン教創設者ジョセフ・スミス(1805〜44年)の後継者ブリガム・ヤング(1801〜77年)は、砂糖を州内で製造する決意を固めた。そして、彼はフランスでのモルモン教伝道者として生活し、そこでてん菜製糖を知ることになったジョン・テイラー(1808〜87年)に工場建設に当たらせた。工場の機械設備は、1万2500ドルでリヴァプールのフォーセット、プレストン社に発注した。機械は1852年4月にニューオーリンズに到着したが、ミシシッピ川とミズーリ川の舟運、さらに馬車での陸路の輸送に困難を極め、11月になってようやくユタ州に到着した。さらに、別の機械も1853年に到着し、工場は操業を開始した。しかし、従業員はてん菜製糖の技術的な経験を欠いていたため、結晶した砂糖の製造に失敗し、工場は1855年3月に閉鎖された。
米国のてん菜糖業の歩みは、決して順調とは言えなかった。最初のてん菜製糖工場の操業開始から30年後の1868年にはドイツ人のE.T.ゲナートとヨーゼフ・ブンは、イリノイ州チャッツワースでゲルマニアてん菜製糖会社を設立した。工場は機械の具合が良くなかったため、毎日50トンのてん菜を処理したに過ぎず、てん菜の糖分は12.5%であったが、砂糖歩留まりはわずか3.5〜5.5%であった。工場は1871年にはヨーゼフ・ブンが専有することになり、すべての機械はイリノイ州フリーポートへ輸送し、工場を操業したが、その後機械の一部はウィスコンシン州ブラックホークで売却し、工場を建設したものの、長続きせず、1875年に閉鎖した。
ドイツ人のボーネンシュティールとオットーは、1868年にウィスコンシン州フォン・デュ・ラックで1万2000ドルを支出して、毎日10トンのてん菜を処理する工場を建設した。工場は7%の砂糖歩留まりを達成したが、2年間稼働した後、操業を断念した。
米国におけるてん菜糖業の父と称されているE.H.ダイアー(1822〜1910年)は、1870年にカリフォルニアてん菜製糖会社を設立した。そして、ドイツ人の経験豊かな製糖専門家オットーと化学者のクライナウと提携し、カリフォルニア州アルバラードで12万5000ドルを投じて製糖工場を建設した。工場の機械は、前述のウィスコンシン州フォン・デュ・ラックの閉鎖した工場の機械をそこへ運んで使用した。工場の砂糖歩留まりは8%あり、1870年から4年間稼働したが、事業は財政上失敗に終わった。工場の機械は分解され、1874年にカリフォルニア州サンタクルーズ近くのソーケルへ運ばれ、オットーとボーネンシュティールはそこで1877年までてん菜を処理した。
E.H.ダイア―は20万ドルの資本で1879年にスタンダード精製糖会社をアルバラードで設立し、息子のエドワードが工場長に就任した。工場の第3稼働期の1881/82年期には事業は興隆し、1884年には毎日100トンのてん菜を処理するまでになり、1885年に工場は拡張された。しかし、1887年にボイラーの爆発により工場の建物が破壊され、会社は破産した。その後、E.H.ダイアーは会社の財産を継承するため、1887年に太平洋岸製糖会社を設立し、息子のエドワードとハロルドも加わり、工場を新設したが、2年間稼働しただけで、財政上の失敗に終わった。1889年にはアラメダ製糖会社が工場を継承し、てん菜処理能力を1日800トンに引き上げた。
次に、米国の製糖業の歴史上著名な人物は、クラウス・スプレッケルズ
(注)(1828〜1908年)(図4)である。彼はドイツのニーダーザクセン州ラムシュテットの生まれで、兵役を逃れるために18歳で祖国を離れ、1846年にポケットに3ドルを突っ込んでチャールストン(サウスカロライナ州)に上陸し、同地の雑貨店店員として週給4ドルで働き、こつこつと貯金して、自分の店を開いた。その後、彼は金鉱が発見(1848年)され、ゴールド・ラッシュが始まった(1849年)カリフォルニアへ行き、小さな精製糖工場を購入した。彼は1865年には最新の砂糖精製法を知るため、マクデブルク(ドイツ中部)へ行き、精製糖工場の労働者として8カ月間働き、学んだ後、退職を申し出て、最も近代的で最良の製糖機械を購入し、サンフランシスコで精製糖工場を建設した。工場は当初、原料の粗糖をフィリピンから購入し、精製していたが、後にはハワイから入手することになった。彼はハワイ王国のカラカウア1世(1836〜91年:在位1874〜91年)からマウイ島で4000ヘクタールの土地を取得し、1876年にハワイ商業製糖会社を設立した。取得した土地は乾燥し、痩せていたため、彼は50万ドルを投じて21マイル(約34キロメートル)の長さのかんがい用の用水路を建設した。その結果、痩せた土地は甘しゃ栽培に適した土地に変貌し、彼はハワイ諸島におけるかんがいシステムの先駆者となった。1875年には米国とハワイ王の間で互恵通商条約が締結され、ハワイからの砂糖は無税で米国に輸入することができた。そのため、スプレッケルズはハワイの粗糖をサンフランシスコの精製糖工場で使用し、他工場よりも安価で精製糖を製造することができた。彼は製糖事業のほか、ホノルル〜サンフランシスコ間の砂糖と乗客を輸送する商船会社やホテル経営にも携わり、巨万の富を築き、ホノルルの宮殿風の豪邸に居住し、「ハワイ諸島の砂糖王」「キング・クラウス」と呼ばれた。
クラウス・スプレッケルズがてん菜製糖を知ったのは1865年にマクデブルクに滞在した時であり、米国のてん菜製糖工場を知ったのはE.H.ダイアーがアルバラード工場を建設した1870年であった。それから長い年月が経過した後、彼は1888年にカリフォルニア州ワトソンビルでてん菜製糖工場を建設した。これまでの米国のてん菜製糖工場は短命に終わったが、この工場の経営は順調で、11年間稼働した。一方、彼が苦労の末、諸事業を築き上げてきたハワイでは王国の独立を維持しようとした女王リリウオカラーニ(1838〜1917年:在位1891〜93年)は、反乱によって退位させられ、1894年に王制が廃止になり、ハワイ共和国が発足し、1898年には米国に併合された。このようなハワイでの政治的状況の変化を受けてスプレッケルズは、ハワイでの事業を2人の息子(クラウスとルドルフ)に委ね、米国へ活躍の舞台を移した。彼は閉鎖したワトソンビルの工場設備とドイツのグレーベンブローホ(ドイツ西部)から取り寄せた機械をカリフォルニア州サリーナターレスへ搬入し、1899年に毎日3000トンのてん菜処理能力を有する世界最大のてん菜製糖工場を建設した。ハワイのかつての甘しゃ糖王クラウス・スプレッケルズは、米国におけるてん菜糖業の推進者になった。
19世紀末の米国のてん菜糖業において重要な人物は、ヘンリー・オックスナード(1861〜1922年)である。彼は1890年にネブラスカ州グランドアイランドでてん菜製糖工場を建設した。同工場は1965年まで稼働した。続いて、1891年にはネブラスカ州ノーフォーク(1905年まで稼働)とカリフォルニア州チノ(1926年まで稼働)でてん菜製糖工場を建設した。さらに、彼は1911年に米国てん菜製糖会社協会を設立し、長年にわたり会長を務め、米国のてん菜糖業の発展に貢献した。
前述した通り、ユタ州ソルトレーク・シティでモルモン教徒が1853年に建設したてん菜製糖工場は、失敗に終わり、わずか2年で閉鎖された。その後、30年余りの歳月を経て、モルモン教第4代首長ウィルフォード・ウッドラフ(1807〜98年)は、再びてん菜製糖工場を建設する計画を立てた。彼は1889年にカリフォルニア州アルバラードのE.H.ダイアーとワトソンビルのスプレッケルズの工場視察に代表団を派遣し、同年にユタ製糖会社(後にユタ・アイダホ製糖会社に改称)を設立した。会社は米国製の機械を工場で使用する予定をしていたので、若くて経験豊かなエドワード・F・ダイアーを工場長とする機械工場を建設した。ダイアーはユタ州リーハイでてん菜製糖工場を40万ドルで建設する注文を得た。その際、会社は彼と製糖部門に経験豊かな職員が最初の稼働期に指導するという契約を結んだ。
モルモン教首長ウィルフォード・ウッドラフは、「皆さん、われわれはこの工場の建設で前進しなければならない。—(中略)われわれが前進すべきかどうかを問うとすれば、光が現れる。そのような場合には光に従うというのが、私の生涯の習癖である」と述べているように、工場の建設は営利的事業ではなく、首長のビジョンに基づいて実行される宗教的任務であった。ユタ製糖会社は、1891年にユタ州リーハイでてん菜製糖工場を建設した。会社はモルモン教首長=会社社長ということで、モルモン教の大きな信用を当てにすることができるという強みを持っていたことから、あらゆる資金面の困難は克服され、最初の稼働期は順調な経過をたどった。これまでの米国のてん菜製糖工場は短命に終わったが、リーハイ工場は1937年まで46年間操業した。
(注)クラウス・スプレッケルズはドイツ人であり、「シュプレッケルズ」と表記すべきであるが、18歳から米国で生活し、米国で亡くなったことから、本稿では英語の発音で「スプレッケルズ」と表記している。
【参考文献】
Jakob Baxa und Guntwin Bruhns(1967), Zucker im Leben der Völker−Eine Kultur-und
Wirtschaftsgeschichte, Berlin, Verlag Dr.Albert Bartens, SS.88-119, SS.128-145, SS.192-201.