シュガーロードの砂糖文化とそのお菓子
最終更新日:2022年7月11日
シュガーロードの砂糖文化とそのお菓子
2022年7月
はじめに
シュガーロード連絡協議会は、シュガーロードと呼ばれている長崎街道沿線の自治体や菓子業界団体の方々と、「砂糖文化」をキーワードに、長崎から小倉までを線で結び、それぞれの個性を発揮した地域づくりにつなげ、シュガーロードの魅力を発信するため、平成20年に設立された。
1.シュガーロードとは?
シュガーロードとは、シルクロードになぞらえた長崎街道の愛称である。長崎街道は、現在の福岡・佐賀・長崎の3県にまたがる九州随一の街道で、長崎から小倉(福岡県北九州市)まで57里(約228キロメートル)、急峻な山道を超える険しい道のりだった(図1)。江戸時代には長崎奉行などの幕府役人や大名をはじめとする武士、江戸参府へ赴くオランダ商館長、商人や文人など、多様な身分や立場の者が行き交いにぎわった。
2.シュガーロードの歴史 - 砂糖文化と長崎街道
元亀2年(1571)のポルトガル貿易港としての開港、幕府によるキリスト教の禁教および外国商人との自由な交易の統制などを経て、いわゆる「鎖国」状態となった日本で、長崎は唯一、西洋や中国へ開かれた貿易港となった。そのため、長崎にはオランダ船と中国船が運んできた珍奇な品物や文化が集結するとともに、これを求めて、日本の津々浦々からさまざまな人々が長崎を訪れたのである。
西洋や中国からもたらされた貿易品は、織物や書籍、香辛料、動物など多岐にわたるが、その中に砂糖があった。砂糖は当初、貿易船にとってはバラスト(底荷、船の重り)だったが、後に、オランダと中国からの輸入量を合わせると、最盛期には年間1500トンから2000トンを超える主要貿易品になる。砂糖をはじめ、長崎にもたらされた輸入品のほとんどは、幕府の貿易機関である長崎会所の手を経て、海路で大坂に運ばれた後、日本の各地へ流通した。つまり、西洋や中国からもたらされた大量の砂糖が、長崎街道を運ばれて各地へ広がったわけではない。長崎街道がシュガーロードと呼ばれる理由について、当時の砂糖文化から確認したい(図2)。
海外貿易により長崎に流入した砂糖は貨幣のように使用された。長崎に遺る黄檗宗の寺院には、その寺院にゆかりある地域出身の中国人によって、砂糖が寄進(寄付)された記録が残されている。
長崎の遊女たちには、なじみのオランダ人や中国人から“貰砂糖”と称した砂糖が贈られた。この砂糖は、オランダ商館の帳簿によれば、200キログラムから300キログラムの砂糖(現在の金額にすると20万〜30万円相当)が入る大型の籐製の籠に入れられていたという。
また、安永7年(1778)には、オランダ商館長フェイトが、祭礼と市内を見学する見返りに、年番町乙名(長崎の地方役人)へ白砂糖10籠(2〜3トン)を差し出した。19世紀にオランダ商館長を務めたドゥーフは、帰国に際し、遊女との間に生まれた息子の養育費として、白砂糖300籠(60〜90トン)を残した。
さらに、オランダ船や中国船の荷役にあたる日雇人夫に対し、貿易品から砂糖をこっそり抜き取ることを防ぐ目的で、あらかじめ“盈物砂糖”という手当てが与えられていた。“盈物砂糖”は中国船だけでも60トンもあったという。
これらの砂糖は個人で消費できる量ではなく、転売されていた。仲買商人が買い集めたこれらの砂糖は、長崎市中、そして陸路や海路を経て全国各地へ広がったが、これらの砂糖の一部は、長崎街道を運ばれ、街道沿いの地域にもたらされた。
長崎で砂糖を手にしたのは、人夫や遊女などだけではない。長崎街道沿いの福岡藩・佐賀藩の武士たちは、隔年交代で長崎警備を務めており、そのため長崎で砂糖を優先的に買い付けることができた。
ここまで、正規の貿易ルートから外れた砂糖が長崎街道沿いの地域に浸透する様子について述べたが、長崎街道沿いの菓子文化の発展は、砂糖が手に入れやすかったためだけではなく、西洋や中国からもたらされた技術や道具、そして砂糖を用いる文化も大きく影響している。
砂糖が甘味料として普及する前は、日本人にとっての甘味は水あめや蜜だった。現在では当たり前の、餅やまんじゅうに入れられる甘い餡も、当時は塩餡だった。それが江戸時代、長崎を窓口にして、海外の品物や文化がもたらされると、砂糖を用いた甘い菓子が一般的になるとともに、それまで日本では見られなかった製菓技術が用いられるようになる。砂糖・卵・小麦粉を用いた菓子や、西洋の製菓技術をヒントに編み出された引釜(オーブンのような道具)を用いた菓子、中国人に伝えられた米と砂糖を合わせた菓子など、日本人が口にする菓子が飛躍的に多彩なものになった。これは、近隣各地の菓子職人が、長崎へ直接製法を学びに訪れることができたためである。
さらに、長崎くんちの庭見せ(祭礼の数日前に、本番に使用する衣装や道具、祝いの品を披露する場)では“ぬくめ細工”(写真1)を飾るが、他にも、長崎街道沿いでは慶弔時に、砂糖を用いた菓子や料理を用いる事例が目に付く。砂糖はもてなしや贅沢さの表現、防腐や保湿など多様な目的で使われたが、砂糖を得やすい地域だからこそ、砂糖をふんだんに使用する共通の文化が根差していったのだろう。
3.代表的なお菓子の紹介
(1)カステラ(長崎県長崎市)
16世紀の南蛮貿易により、ポルトガルから伝えられたが、本来はスペインにあったカステリア王国の菓子「ボロ・デ・カステリア」が、後のカステラとなったとされており、寛永元年(1624)創業とされるカステラの老舗・mサ屋の初代・寿助は、ポルトガル人から製法を学んだとされている(写真2)。
(2)諫早おこし(長崎県諫早市)
佐賀藩の大規模な干拓と米の増産による余剰米と、街道沿いの地域で手に入れやすい砂糖を用いて作られたのがはじまり(写真3)。
(3)へこはずしおこし(長崎県大村市)
黒糖と自家製の水あめを用いたおこし。延宝7年(1679)に中国の欣済上人に伝えられて以来、その製法を守り続けている。この「へこはずし」の名称は、あまりのおいしさに「へこ(ふんどし)」がはずれていることにも気づかなかったという逸話からついたと言われている(写真4)。
(4)逸口香(佐賀県嬉野市)
黒糖の餡を皮で包み焼き上げることで空洞になる、中国の空心餅を原形として生まれた菓子である(写真5)。
(5)小城羊羹(佐賀県小城市)
小城羊羹の起源は諸説ある。明治初年には森永惣吉により羊羹製造が開始され、明治半ばには村岡安吉により「小城羊羹」の名で販売され始めた。外側は砂糖のシャリ感があり、中はやわらかいのが特徴である(写真6)。
寒天を用いた羊羹は天明4年(1784)、豊前中津の田中信平による卓袱料理の料理書『卓子式』に記された「豆砂こう(「こう」は米へんに羔)」とほぼ同様であり、中国から伝えられたういろうなどから派生したことがうかがえる。
(6)丸ぼうろ(佐賀県佐賀市)
ポルトガル語で菓子を意味する「ボーロ」が語源の南蛮菓子(写真7)。寛文年間に鍋島藩(佐賀藩)の御用菓子司であった横尾市郎右衛門が、長崎に赴き製法を学んだ。江戸時代には藩や寺院へ納められていた。
(7)千鳥饅頭(福岡県飯塚市)
千鳥饅頭は昭和2年に千鳥屋で誕生した菓子。守り続ける伝統のカステラと丸ボーロから生まれた千鳥屋の代表菓子。カステラ生地で白餡を包んだ、南蛮菓子の製法を生かした焼きまんじゅう(写真8)。
(8)金平糖(福岡県北九州市)
ポルトガルから伝わった金平糖はケシの実やゴマを核としたものだったが、日本に伝来し、ざらめを核として砂糖のみを原料とする金平糖が生まれた。長崎から北九州にきて普及活動を行っていた宣教師ルイス・フロイスが金平糖を持ち込み、織田信長に献上したのが始まりとされる(写真9)。
4.日本遺産登録の経緯
平成27年に新たに創設された日本遺産は、地域の活性化を目指す仕組みであったことから、本会でシュガーロードの日本遺産認定を目指すこととなった。
平成27年度に日本遺産の認定に向け申請を行ったものの、不認定という結果になった。それから計5回の申請を経て、日本遺産の目的である点ではなく面としての価値を生かすため、シュガーロードの全体的な価値の明確化と各地域が全体的な価値にどう貢献しているのかという観点を踏まえ、ストーリーを再構築し、タイトルの変更などの改善を重ねた末、令和2年度に「砂糖文化を広めた長崎街道〜シュガーロード〜」が日本遺産に認定された。
また、本会では日本遺産申請前からさまざまなイベントを開催している(表)。
おわりに
令和2年度に日本遺産に認定されたものの、いまだ「シュガーロード」は全国的にマイナーなコンテンツである。今後も本会を通じて「シュガーロード」の魅力を発信し、イベントを行っていきたいと考えている。そして、今もなお受け継がれている技術によって作られた名菓を多くの方に堪能していただきたい。
このページに掲載されている情報の発信元
農畜産業振興機構 調査情報部 (担当:企画情報グループ)
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