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渋沢栄一と製糖業〜日本の製糖業の変遷〜

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最終更新日:2025年1月10日

渋沢栄一と製糖業〜日本の製糖業の変遷〜

2025年1月








DM三井製糖株式会社
代表取締役副社長執行役員 佐藤 裕

 

はじめに

 昨年(2024年)7月3日に、新しいお札(新紙幣)が発行されました。一万円札には、生涯において500もの企業設立などに関わり“近代日本社会の創造者”と言われる渋沢栄一が肖像に選ばれました(図1)。旧一万円札は明治の思想家で慶應義塾大学を設立した福沢諭吉の肖像でしたが、福沢諭吉が聖徳太子に代わって肖像に採用されたのは1984年11月1日ですから、実に40年ぶりに一万円札にニューフェースが登場したわけです。

 戦後発行された紙幣(日本銀行券)の肖像に登場した人物は、延べ14人になりますが、長年高額紙幣の代名詞であった聖徳太子の他、主に明治時代の政治家や思想家、学者などからの起用がほとんどで、渋沢栄一はビジネス界からの初の登用となりました(表1)。






 

 このビジネス界のスーパースター渋沢栄一が、実は私たちが日頃口にしている砂糖と非常に深い関係があることについて、ご紹介させていただきます。

 2021年に放送されたNHKの大河ドラマ「青天を()け」は、幕末から明治を駆け抜け、日本資本主義の礎を築いた渋沢栄一の生涯を、俳優の吉沢亮さんが渋沢役を演じて全41回にわたって放送されました。ある回の番組中(物語の中)に、栄一が関わった日本の企業の名前のリストがテロップで流れましたが、その中に複数の製糖会社の名前があったことに気付かれた方は、そう多くはないと思います。

 渋沢が1878年に創立し初代会頭を務めた東京商工会議所の資料によりますと、「渋沢が関わった当時の企業等(481社)」の中で、製糖関係の企業として、大日本製糖株式会社(以下会社名における「株式会社」を省略)、帝国精糖、日本精糖、南日本製糖、明治製糖、八重山糖業と6社の社名が記載されています。また、「渋沢が関わった現在の企業等(186社)」には、大日本明治製糖(社名は2019年10月現在、現DM三井製糖)が記載されています。

1 渋沢栄一と日本の製糖業

 それでは、渋沢栄一がこれらの製糖企業とどのような関わりを持っていたのか、少し探ってみましょう。

 公益財団法人渋沢栄一記念財団の資料によれば、上述の製糖業6社に台湾製糖を加えた7社と渋沢の関わりについて、以下のようにまとめられています(表2)。
 



 これらの製糖企業に栄一がどのように関わったのか、同財団の「渋沢栄一伝記資料」に収められている記述から、一社ずつ読み解いてみたいと思います(現代語への抄訳は筆者)。

(1)日本精糖株式会社

 1889年(明治22年)に佐野常樹を綿業事情視察のためにインドに派遣する際、栄一は南洋の糖業事情についても調査をするように依頼をし、その結果を受けてわが国にも精製糖業を興そうと考え、1894年(明治27年)2月16日、松本重太郎らとともに、まず精糖事業調査会を組織して精糖試験および海外調査に従事した。

 1895年(明治28年)12月22日:精糖事業調査会にて日本精糖株式会社を設立することを決定、創業総会を開催し12月26日に設立免許を申請、翌年1月15日に免許が下り、栄一は取締役に就任した。同社は精糖用諸機械を英国より購入し、1898年(明治31年)6月15日に操業を開始した。

(2)八重山糖業株式会社

 1895年(明治28年)11月18日:大江卓、鳥海清左衛門らとともに八重山糖業株式会社の設立を発起し、東京日本橋倶楽部において創業総会を開く。栄一は議長となり取締役、監査役を指名、自らも監査役に選ばれる。同社は石垣島における中川農場ならびに八重山開墾組合の設備を引き継ぎ、事業を開始する。

 1898年(明治31年)8月20日:創立以来成績が上がらず毎期損失を重ね、さらに事業拡張のための資本金増加を計ったものの資金調達が困難で、株主総会を開催し事業の整理を議決した。後の1902年(明治35年)4月に会社解散。台湾製糖へ機械譲渡。

(3)帝国精糖株式会社

 1896年(明治29年)10月10日:加東徳三、鳥海清左衛門、殿木善兵衛らの発起により、帝国精糖株式会社創立。栄一は株主になる。翌年2月26日に設立免許を得たものの、外国糖輸入の増進に直面して到底成算が見込めないため同年10月21日に解散。

(4)台湾製糖株式会社

 1900年(明治33年)6月13日:台湾製糖業の振興を計るため新式機械による台湾製糖株式会社を設立する計画が熟し、発起人会を兼ねて発起披露の宴が開催され、栄一は来賓として出席。同年12月10日に創立。栄一は株主になる。

(5)明治製糖株式会社

 1906年(明治39年)10月6日:相馬判治、小川ぜんらにより計画された明治製糖株式会社の設立は、栄一、森村市左衛門らの賛助の下に具体化し、第一回発起人会を開催、栄一は創立委員長となる。

 同年12月29日に創立総会を開催。栄一が議長となり、取締役および監査役の指名を行う。栄一は相談役となる。

 1909年(明治42年)6月6日:栄一は古希となるに当たって第一銀行など少数の関係先を除いて引退を決意し、同社の相談役を辞する。

(6)大日本製糖株式会社

 1906年(明治39年)11月5日:日本精製糖株式会社は臨時株主総会において日本精糖株式会社と合併する件を決議し、新役員を選出した。栄一は相談役に推薦される。同月11日に合併が成立して社名を「大日本製糖株式会社」と改める。栄一は、酒匂常明(さ こう つね あきら)を社長として推挙した。

 1909年(明治42年)1月11日:同社は諸製糖会社合同以来経営困難に陥り、酒匂社長以下役員が相前後して辞職、栄一も酒匂を推薦した責任をとり相談役を辞職した。

 同年3月8日に栄一は大株主会より後継役員候補者の選定を請われ、4月27日臨時株主総会において藤山雷太ら7人を指名し、栄一は相談役となる。

 同年6月6日:栄一は古希を理由に一旦同社の相談役も辞するも、後に間もなく委嘱され、三度目の相談役となる。

(7)南日本製糖株式会社

 1912年(明治45年)2月28日:南日本製糖株式会社の設立総会が開かれ、栄一が出席。同社は4年後に帝国製糖に合併された。


 このように、栄一は1894年から1912年のわずか20年弱の間に、多数の製糖企業の創立に関わり、日本の製糖業の礎の構築に大きく貢献したことが分かります。

2 渋沢栄一以前の日本の砂糖の歴史

 ここで、渋沢栄一が関わった近代日本の製糖業以前の日本の砂糖の歴史について、簡単に触れておきたいと思います。

 日本に最初に砂糖が伝えられたのは、奈良時代(754年)孝謙天皇のときに唐僧鑑真によるものといわれています。東大寺正倉院の記録「種種薬帖」(756年)には砂糖に関する記述がありますので、奈良時代には日本に砂糖が持ち込まれていたと思われます。

 室町時代にはかなりの量の砂糖が輸入され、菓子原料として使われていたようです。

 江戸時代初期には、奄美大島や沖縄にてサトウキビが栽培され、砂糖製造が行われるようになりました。鎖国令により外国貿易は制限されていましたが、長崎の出島を通じて砂糖の輸入は続き、長崎から大阪まで船で運ばれ全国に流通したほか、長崎から佐賀を通って小倉に続く長崎街道は「シュガーロード」とも呼ばれ、全国的にも有名な数々の銘菓が生まれて今日まで親しまれています。

 江戸時代末期には、讃岐、阿波、土佐、駿河、遠江などでもサトウキビが栽培されるに至りましたが、明治時代に入ると、海外からの砂糖輸入が急増し、国内の産地は奄美と沖縄の黒糖のみとなりました。その後、1874年(明治7年)には英国資本の香港精糖からの白糖輸入が始まり、1890年代になるとヨーロッパからビート白糖が輸入されるようになりました。1894年(明治27年)には海外からの白糖輸入が13万トンに達したとの記録があります。砂糖輸入による外貨の流出が急増する中、日本国内に製糖業を興そうとの機運が高まり、上述の通り1895年(明治28年)の渋沢栄一他による日本精糖の設立につながりました。

3 渋沢栄一後の日本の糖業の歴史

 それでは、渋沢栄一が日本の製糖業に深く関わった1894年(明治27年)から1912年(明治45年)以後、日本の糖業はどのような歴史をたどったのでしょうか。

 今日までの日本の人口、砂糖消費量、一人当たりの年間砂糖消費量、そして製糖業に関わる主な動きをまとめてみました(図2、3)。
 








 

 これを見ますと、日本の砂糖消費量は、明治の時代から太平洋戦争までほぼ一貫して伸び続けており、一人当たりの砂糖消費量も同様の傾向が続いています。この間、人口も一貫して増加しており、太平洋戦争によって初めて人口が減少します。この戦争により、一人当たりの年間砂糖消費量は激減し1946年(昭和21年)には年間0.2キログラムまで落ち込みますが、その後、戦後の復興とともに急回復を見せます。明治から太平洋戦争までの期間は、わが国の砂糖産業における「黎明(れい めい)期」であり、1895年(明治28年)の日本精糖を皮切りに国内および台湾において多数の製糖企業・工場が設立・新設され、1920年代からは北海道においてもてん菜糖業が興ります。

 太平洋戦争後、製糖業は新たなスタートを切り、「三白景気」などもあり工場の新増設ラッシュとなりますが、1963年(昭和38年)の粗糖輸入自由化が転機となり、それまで好況を享受していた製糖業界は一転して過当競争、乱売合戦に陥り疲弊、1965年(昭和40年)より糖価安定法成立、不況カルテル実施、商社による系列化などが進んだものの状況は改善されず、1973年(昭和48年)には第四次中東戦争をきっかけとしたいわゆる「石油ショック」が起き、それに伴い海外粗糖相場が大暴騰して業界は混乱しました(国内の砂糖消費量および一人当たりの年間消費量も、1973年〈昭和48年〉の318万4000トンおよび29.2キログラムをピークに減少に転じます)。相場暴騰のさなか、1974年(昭和49年)に精製糖企業33社と豪州とで締結した粗糖の輸入長期契約と、その後の国際相場の急落が、製糖各社のさらなる業績悪化に拍車を掛けるに至りました。この「豪州糖長契」がとどめを刺す形となり、その後「特例法」「糖価安定法」改正、「産構法」適用などの政策支援を受けつつ、製糖企業の大規模な再建合理化、大リストラ(倒産、工場閉鎖、操業停止など)の波が押し寄せました。

 1985年(昭和60年)頃には大リストラの波も一巡したものの、今度は代替甘味料などの登場により砂糖消費の長期低迷傾向が始まり、減少する需要に合わせる形で2001年(平成13年)頃から業界および工場の大再編が一気に進むことになりました。2000年代前半で、併せて6件の製糖企業の合併および工場の統合が行われ、7つの製糖工場が閉鎖されています。

 2000年代初頭の一連の業界大再編後も、国内の砂糖消費の減少傾向は変わらず、2008年(平成20年)に国内人口も1億2808万人でピークを迎えて以降、減少の一途をたどり、2014年(平成26年)には国内の砂糖需要はついに200万トンを割り込み、1966年(昭和41年)以前のレベルにまで低下しました。一人当たりの年間砂糖消費量も14.5キログラムと、米国の34.0キログラム、EUの37.4キログラムを大きく下回り、世界平均の22キログラムをも下回るレベルにまで落ち込んでいます。

 このような製糖業を巡る厳しい環境の下、ここに来て業界再編の新たな波が興りつつあり、2021年(令和3年)に三井製糖と大日本明治製糖が経営統合してDM三井製糖ホールディングスが発足、翌2022年(令和4年)には傘下の三井製糖と大日本明治製糖も合併してDM三井製糖が誕生しました。また、2023年(令和5年)には日新製糖と伊藤忠製糖が経営統合してウェルネオシュガーが発足、昨年10月には傘下の日新製糖と伊藤忠製糖も合併をしてウェルネオシュガーに統合しています。

4 渋沢栄一の思いをつないで

 「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一は、1840年(天保11年)に武蔵国榛沢郡血洗島村(むさしのくにはんざわぐんちあらいじまむら)(現埼玉県深谷市)の農家に生まれ、幕末に倒幕運動に参加、その後、一橋慶喜(将軍徳川慶喜)に仕えて幕臣となり、徳川幕府が倒れると明治政府に招聘(しょう へい)されて大蔵省に入省、第一国立銀行の設立に関わるなどした後に、多くの株式会社の設立に関わり、日本の近代資本主義の確立に大きな役割を果たしました。渋沢はその代表的な書である「論語と算盤(そろ ばん)」の中で、「論語」の教えの根底にある道徳観と、「算盤」に代表される実業(ビジネス)を融合させることを説きました(「道徳経済合一説」)。栄一がわが国の製糖業の立ち上げに尽力したのも、「民の繁栄が国の繁栄につながる、社会や国家の繁栄に貢献することがビジネスの目的である」との強い思いによるものだったと思います。

 渋沢栄一が日本の製糖業の礎を築いてから130年が経過し、度重なる業界環境の変化の荒波を経て、製糖企業のかたちは大きく変わりました。しかしながら、日本の製糖企業は、日本の食を支える北海道の畑作(輪作)において大切な作物であるてん菜(てん菜糖業)と、沖縄や鹿児島の離島(奄美地方)の基幹作物として国土保全上も含めて極めて重要なサトウキビ(製糖業)と、本州・九州の精製糖企業とが正に「三位一体」で相互に支え合う構図となっており、現在に生きる私たち「糖業人」も、持続可能な製糖業を通じてわが国の地域社会や経済の繁栄に貢献するという高い志をもって、栄一の思いをしっかりと将来へつないで行きたいと思います。読者の皆さまも、砂糖や和菓子、洋菓子などを召し上がる際には、北海道や南の島々の緑深い農地を思い浮かべながら、当時の栄一の情熱に思いを馳せて頂ければうれしいかぎりです。

おわりに 渋沢栄一ゆかりの糖業施設

 渋沢栄一が関わった糖業関係企業の施設は、その多くが閉鎖され、今に残っているものはごくわずかですが、最後に2件の遺構を紹介して本稿を結ばせて頂きます。旅行や出張などで近くに出向かれる機会があれば、ぜひお立ち寄り頂ければと思います。

(1)関門製糖株式会社

 1904年(明治37年)に鈴木商店が大里製糖所として設立し、1907年(明治40年)に大日本製糖が買収した大里製糖所は、現在も関門製糖(北九州市門司区大里)として精糖事業を続けており、関門海峡沿いに幾棟かの明治時代のレンガ造りの建屋が残っています(写真1)。
 
1

(2)台湾糖業博物館

 台湾南部、高雄の近郊の台湾製糖(創業当時、渋沢栄一が株主として名を連ね、栄一が関わった石垣島の八重山糖業の機械類が台湾製糖に移設された)発祥の地に、「台湾糖業博物館」があります(写真2)。こちらは現在、稼働はしていませんが、多数の日本の製糖企業がその足場を築いた台湾の、当時の製糖工場の数々の遺構が展示されています。
 
2
【参考文献】
・渋沢栄一記念財団編「デジタル版『渋沢栄一伝記資料』」
<https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/>(2024年11月1日閲覧)

・金井道夫(1986)『砂糖消費の経済分析』明文書房
・社団法人糖業協会編(2003)『糖業技術史−原初より近代まで−』丸善プラネット
・西尾弘二(1990)『砂糖屋さんが書いた砂糖の本』山水社
・大日本製糖株式会社編『「日糖六十五年史」以降35年の歩み』
・大日本製糖株式会社編(1960)『日糖六十五年史』
・明治製糖株式会社編(1936)『明治製糖株式会社三十年史』
・石垣島製糖株式会社編(2022)『石垣島製糖 創立60周年記念誌』

・渋沢栄一(2024)『[新書版]論語と算盤 お金の大事なこと』興陽館 
 

 

 

 

 

 

 

 

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